高橋亮騎手インタビュー特別編、今回は3名の調教師が登場。高橋亮騎手のデビュー時の師匠であり、昨日登場した赤木高太郎助手の現師匠。橋口調教師からお2人へのメッセージとは。そして、同じく騎手から調教師へと転身し活躍されている安田隆行調教師、松永幹夫調教師の先輩調教師から高橋亮騎手へのエールも届いています!(取材・文:井内利彰)
◆橋口師から赤木高太郎助手へ
−赤木高太郎さんが橋口弘次郎厩舎の所属になった理由を教えていただけますか?
本人から申し出があったので、それを快諾しました。
−所属前の赤木さんに対する印象は?
地方からJRAへ移籍するのに、一次試験から受けて合格したんですから、相当な努力家だろうなという印象でしたね。馬に乗りながら勉強するのは、並大抵の気持ちでできることではないですから。
−実際に厩舎に所属してからの赤木さんはどのような方なんですか?
誠実で技量も達者な「がんばりやさん」ですよ。かなり理論派でしっかりした考え方を持って馬に乗っています。
−赤木さんは「橋口先生からの言葉で騎手を辞める踏ん切りがついた」とおっしゃっていましたが?
彼は「調教師になりたい」という大きな目標がありますからね。それを叶えるのではあれば、年齢的にも今が引き際じゃないかと思ったんです。
調教師は簡単に達成できる目標ではないけれど、それに向かって努力する時だと思うし、それができる男ですよ。早く調教師になれればいいなあと応援しています。
◆橋口師から高橋亮騎手へ
厳しい世界だがやりがいがある
−高橋亮騎手が所属していた当時の印象や思い出を教えていただけますか?
大人しくて真面目なタイプでしたね。柔軟性のある騎乗をして、3年目(1998年)にはツルマルガイセンの中日新聞杯では重賞を勝ちました。その翌年でしたね、小倉で落馬事故があったのは(1999年9月5日)。半分意識がないような状態で病院に運ばれたのを今でも覚えています。
−そして今年、調教師試験に合格したという報告を受けていかがでしたか?
まだ若いのによく頑張って合格しましたよ。試験に合格するまでは自分ひとりの力でなんとかしなくてはいけませんが、調教師になれば周囲の協力が必要不可欠です。馬を預けてくれるオーナー、仕事を共にするスタッフ、みんなの協力があってこそ結果を残せる世界が調教師です。
厳しい世界ですが、それだけやりがいのある仕事でもあると思いますから、頑張ってほしいですね。
◆橋口師も騎手から調教師に
−地方の騎手からJRAの調教師への転身は大変だったんですよね?
すぐ調教師になったわけではありませんよ。まずは厩務員になって、その後に調教助手。1頭持ちの調教助手、2頭持ちの調教助手、そして攻め専としての調教助手を経た後に調教師になりました。
実家は競走馬の生産に携わっていましたし、地方競馬の馬主もやっていたので「競馬に関わるすべての仕事」を経験して調教師になりましたね(笑)。
−いろいろ経験されたことは調教師になってからの強みになりましたか?
もちろんですよ。それこそが一番の財産ですね。騎手をやったからこそ、騎手としての辛さが分かりますし、調教に乗る時の助手としてのしんどさもよく分かります。
調教師になってからも、調教に跨ったり、寝藁上げをやったりと、率先して厩舎の仕事をしました。そうしないと私のような無名の調教師にみんながついてきてくれないと思いましたから。そういったことができたのもそれまでの経験があったからでしょうね。
◆先輩調教師からのエール
大変な仕事だが、頑張って欲しい
−安田隆行調教師
私の最終騎乗は中山牝馬Sのベストダンシング(1番人気3着)だったんですけど、乗り終わった後は胸が熱くなって、涙が出てきましたね。
騎手は自分自身がやらなきゃいけない仕事ですが、調教師は生産者や馬主の協力があって、スタッフを引っ張って厩舎経営していかないといけない仕事。大変な仕事ですが、頑張って欲しいですね。
結果にこだわってほしい
−松永幹夫調教師
亮っていう人間がしっかりしているので、いい厩舎をつくっていけると思いますよ。
「騎手あがり」ということで、後輩の騎手たちが調教師という職業に夢を持てるように、結果にこだわってほしいですね。また、これからの競馬を盛り上げていけるように、一緒に頑張っていきたいですね。
◆予告
3月の「おじゃ馬します!」は、1年4か月ぶりに競馬が再開される福島競馬場にスポットをあてます。福島競馬場関係者が明かす、震災当時の日々、再開までの知られざる苦悩、そして福島・福島競馬への熱い思いとは。また、福島出身ジョッキーからのメッセージもご紹介。初回は3/5(月)公開です。ご期待ください!