競馬記者になって初の美浦トレセン。取材対象は前夜から心に決めていた。天才ジョッキー・
横山典弘だ。以前、当コラムで「言葉で表現しづらい独特の感覚」をお伝えしたが、今回も類いまれな感性を持つプロフェッショナルに密着した。
南スタンドのベンチでコーヒーを飲んでいた横山典は未来のダービー馬を目指す2歳馬を眺めながら、こう口を開いた。
「新馬戦って幼稚園の運動会みたいなもの。だから決め付けちゃいけない。もちろん勝ちたいけど、もっと大切なものがある。最初から100%仕上げるなんて、野球で子供に変化球を投げさせるようなもの。肩ができてから変化球を投げればいい。それまでは楽しく野球をしないとね。馬も一緒だよ。まずは競馬を楽しんでくださいってイメージ。味付けで言えば最初は薄味、来るときが来たらバシッと仕上げた方がパンチが利くでしょ」
「心」を壊さないことも大切だという。
「骨折は治る場合もあるけど、心が壊れたら治らない。心と体の
バランスが崩れると、稀勢の里や照ノ富士だってああなるからね」
さらに「新馬は基本、オール
マイティー」とのポリシーを持つ。「
ミホノブルボンの新馬戦、知ってるか? そこに答えがあるよ」と。パワフルな逃げで後続を圧倒し、1992年の
皐月賞、ダービーを制した名馬のデビュー戦(中京芝1000メートル)は実は出遅れからの差し切り勝ちだった。
横山典は可能な限り馬に乗る。どんな馬でも「乗りたい」という欲を消すことはない。かつて
メジロブライトを担当した浅見キュウ舎の山吉助手はある時、横山典に「乗せてくれないか」と頼まれたという。当時、横山典はラ
イバルの
セイウンスカイに乗っており、「クセが盗まれると思って断ったんや」と懐かしそうに笑った。このエピソードを当人に伝えると、記憶をたどりつつニヤリ。
「俺はどんな馬だろうと乗りたい。いい馬には何か共通点があるだろうし、乗れば必ずプラスになる。それが
キッカケで依頼を受けるかもしれない。実際、(武)ユタカが乗っていた
エアグルーヴにも乗れたからな(98年
エリザベス女王杯3着→
ジャパンC2着)」
さらに昔話に花が咲き、あの「平成の怪物」にも話は及んだ。
「
ディープインパクトには乗りたかったさ。そういえば、ユタカが香港での騎乗停止で
有馬記念に引っかかりそうになってね(最終的に2006年
有馬記念後の騎乗停止扱いとなり、
武豊がそのまま騎乗)。あの時はジョッキールームがザワついたよ。みんな“誰が乗るんだ”“とてもじゃないが乗れない”と騒いでいたけど、俺は内心、本気で乗りたいって思ってた(笑い)」
勝利へ貪欲な横山典だが、一方で勝敗以上に大切なモノも併せ持つ。以前、後輩の
四位洋文が口にした「競走馬としてダメでも、乗馬として最高の馬もいる」との言葉が心に染み渡ったという。
「あぁ、そうだよなって。馬にも第2の人生がある。速く走れなくても、おっとりして、人間を信用している馬は子供たちを乗せるには最適。だから“壊さないように、大事に”って四位は言ったんだ。やっぱり俺たちは馬でメシを食っているからね」
胸を打たれた記者は、この話を四位に伝えるため栗東へ飛んだ。「そんなこと言ってたんだぁ」とほほ笑んだ四位は「ノリちゃんとは感性が合うし、いつもそういう話をしている。勝つだけじゃないって言ったらオ
シマイだけど、僕は絶対に馬に無理させない。やっぱり馬が好きだからね」。
8歳から乗馬を始め、夏休みは毎日、馬にまたがった。かつて乗った競走馬の何頭かは、四位の出身「霧島高原乗馬クラブ」(鹿児島)で乗馬として余生を送っている。
馬券の参考にはならないだろう。だが、
横山典弘、
四位洋文というジョッキーの、そこはかとない馬への「愛」を感じてくれたら幸いである。
(童顔のオッサン野郎・江川佳孝)
東京スポーツ