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第1話 あの日、南相馬にて

  • 2012年06月04日(月) 18時00分
 いつの間にか、風が止まっている。

 海に向かってゆるやかに傾斜する放牧地に立った杉下将馬は、あたりを見回し、首をかしげた。

 まだ夕凪になる時刻ではないのだが、海風に運ばれてくる潮の香りが薄らいでいる。海岸通りを走るクルマのエンジン音や漁港のざわめきが、いつもより遠くから聞こえるような気がした。

 2011年3月11日、午後2時半を回ったところだった。

「おーい、どうしたあ?」

 将馬は放牧地にいる3頭の繁殖牝馬に声をかけた。3頭とも厩舎に近い牧柵のところにいて、こちらを見ている。こんな時間に馬房に戻りたがるなど珍しい。

 福島県南相馬市小高区、杉下ファーム。これら3頭の繁殖牝馬がいるだけの、小さなサラブレッド生産牧場である。

 何年も採算割れがつづいたため、父が見切りをつけて解散しようとしたここを、昨年、将馬が引き継いだ。

 東京の有名私大に通い、大手商社の内定を得ていた将馬が牧場を継ぐことに両親は猛反対したが、将馬は決意をひるがえすつもりはなかった。

 将馬は、南相馬のこの土地が好きだった。ここに立って土と草の匂いをかぎ、海からの風を感じていると、全身が大地にしみ込んでいくかのように安らぐことができた。

 左手の厩舎の先には集落があり、海岸通り沿いの松並木が見事な枝を張り出している。

 右手の海浜公園の向こうには漁港と海水浴場が見え、さらに右、つまり南に目を転じると、地元の友人が「1F(イチエフ)」と呼ぶ東京電力福島第一原子力発電所が霞んでいる。

 馬たちを厩舎に連れていこうとした、そのときだった。

 獣の咆哮のような地鳴りがして、目の前のすべてのものが歪んで見えた。

 足を滑らせ地面に片手をついた将馬は、少しの間、何が起きたのか理解できずにいた。家のなかで何かが割れる音がし、飼料置場の壁が崩れるのを見て、ようやく自分たちが地震に揺られていることを知った。

 道路脇の電線がビュンビュンと風切り音をたて、地面すれすれのところまで波打っている。もしこれが切れて馬や自分に当たったらどうなるだろう――そう思ったとき初めて将馬は恐怖を感じた。

 馬たちは、いななくことも立ち上がることできず、ただ四肢を震わせている。

 振幅の大きな横揺れがいつまでもやまず、牧柵がひしゃげていく。

 いったい何分揺れつづけたのだろう、揺れがおさまったとき、将馬はブライトストーンという芦毛馬の顔を抱きかかえていた。

「大丈夫か、シロ……」

 と将馬はシロことブライトストーンのふくらんだお腹をそっと撫でた。シロは、来週出産予定のシルバーチャームの仔を宿していた。

 シロも、ほかの2頭の牝馬も、小さく震えていた。

 携帯電話で父に連絡をとろうとしたが、何度かけても「ツーツー」と話し中の音がするだけでつながらない。

 将馬はリダイヤルを繰り返しながら、軽トラックのラジオをつけた。

 各地の震度が読み上げられ、この一帯は震度6弱か6強だったらしい。津波警報が発令されている。

「よだが来るのか……」

 将馬は、三陸海岸の寒村で生まれた祖父の話を思い出した。その土地の人々が「よだ」と呼ぶ大津波は、海底の砂や瓦礫を含んだ巨大な壁となってすべてを破壊し、引き波で何もかも沖にさらってしまうという。

 ――よだが来たら、牧柵も厩舎も扉という扉さ全部あけて、馬っこさおっ放して高台へ逃げろ。

 この地に杉下ファームを創設した祖父は、生前、何度もそう繰り返していた。

 ――いや、馬たちを逃がしてやる方法が何かあるはずだ。

 そう考えていたとき、また大きな揺れが来た。本震同様、かなり長い横揺れだった。

 余震でさえこの規模だ。これは今まで自分が体験したのとは比較にならない大地震であることを悟った。

 ――町は大丈夫だろうか。

 軽トラの荷台に乗って海岸に近い集落や漁港のほうを見回したが、煙が上がっているところもないし、救急車や消防車のサイレンの音もしない。その静けさがしかし、かえって不気味だった。

 ここはなだらかな傾斜地なので、近くに高台はないが、放牧地の奥の林がいくらか高くなっている。

 将馬は斧で牧柵を切り倒し、馬たちの退路を確保した。しかし、いつもなら曳き手綱をつながなくてもついてくるシロも、前脚を突っ張って、そこから動こうとしない。

 そのとき携帯が鳴った。父からだった。

「やっとつながったか。将馬、今どこにいる?」

「牧場だよ。これからシロたちを放してやって……」

 その言葉を父が遮った。

「津波が来るから、早くクルマで水戸街道まで逃げろ! こっちは母さんたちと避難所に着いたところだ」

 父は市内にある東電の関連会社に再就職し、母はそこで事務のパートをしている。

「よかった、ふたりとも無事なんだね」

「それよりお前だ。馬と一緒に逃げようだなんて思うな。馬は……諦めろ」

 反論しようとした将馬の思考は、けたたましいクラクションに破られた。

「津波が来てるぞー!」

 牧場入口に停まったクルマの窓から、顔見知りの消防団のメンバーが身を乗り出して叫んでいる。彼が指さすほうを見た将馬は、背筋が凍りつくのを感じた。

 先刻まで静かな水をたたえていた海面が盛り上がり、はるか彼方までつらなった白い波頭を見せた大津波が、港に迫っている。

「シロー!」

 声を枯らして叫び、両手を挙げて追う仕草をしても、シロはじっとしたまま、こちらを見つめている。ほかの2頭は、牧柵の隙間から林のなかへ逃げたようだ。

「将馬、ショウマーーー!!!」

 父の声で我に返った。まだ電話はつながっていた。

 港を呑み込んだ津波が黄色い砂塵を巻き上げ、こちらに近づいてきている。

 将馬は軽トラに飛び乗り、猛スピードで海と反対側の水戸街道を目指した。

 涙で前が見づらかった。シロたちに申し訳ない、戻りたいという気持ちとは裏腹に、アクセルを踏み込む力をゆるめることはできなかった。自分の弱さが情けなかった――。

 避難所で両親に合流し、翌朝、牧場の様子を見に行った。

 家も厩舎も飼料小屋も流され、土台だけになっていた。放牧地や運動場には、ほかの家の屋根や家財道具や衣類、クルマのタイヤやシートなどが散乱していた。

 将馬は、胸のなかを何かでかきむしられたように感じ、息が苦しくなった。

 牧場から先は瓦礫に道をふさがれ、クルマは通れなかった。将馬は曳き手綱を肩にかけ、海辺まで歩いた。

 海浜公園の近くで消防団の人間に制止されたが、将馬だとわかると通してくれた。

 瓦礫が散乱しているうえに、道路の舗装があちこち剥がれているので、歩くのもままならない。こちらを目指してきたのは半ば勘のようなものだが、いつも馬たちがこのあたりを眺めていることが多かったような気がしたのだった。馬を探しながら2度、遺体を瓦礫から引っ張り出して毛布をかける消防団の作業を手伝った。

 海浜公園の駐車場だったところがヘドロまみれのプールになっている。

「おい杉下」

 声に振り向くと、津波が来たことを教えてくれた消防団の友人だった。

「ああ、昨日は、おかげで助かったよ」

「それより、あれ……」

 彼の視線を追った将馬は息を呑んだ。

 ヘドロまみれのプールの真ん中で水しぶきが上がり、大きな何かが立ち上がった。

 それは一頭の馬だった。(次回へつづく)

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。

(netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ)

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作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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