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第6話 キズナ

  • 2012年07月09日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の小規模牧場・杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した「シロ」という愛称の繁殖牝馬は、牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。直後に原発事故が起き、将馬は仔馬を連れて、知人女性が継いだ神社に避難した。仔馬は、境内の厩舎で乳母と暮らすようになる。4月のある日、仔馬のいる放牧地に大きなイノシシが迷い込み、仔馬に突進してきた。

『キズナ』

 ジグザグに駆けていた仔馬が放牧地の奥でターンし、猛り狂ったように突っ込んでくるイノシシに真っ直ぐ向かって行った。

 将馬のそばにいた家族連れから悲鳴が上がった。

 ぶつかる、と思った刹那、仔馬が舞うようにイノシシの上を飛び越えた。

 イノシシは勢い余って牧柵に突っ込み、大きな音を立てて転倒した。すぐさま立ち上がって仔馬に突進しかけたが、息が上がったのか、数歩走ったところで立ち止まった。

 仔馬はゆっくりとイノシシに歩み寄り、匂いを嗅ぐように顔を近づけた。イノシシは、仔馬を避けるように反転し、放牧地の外へと逃げて行った。

 それを見送った仔馬が前ガキをした。人にも馬にも甘えず、何かを強く要求することもないあの仔馬が前ガキをするところを、将馬は初めて見た。

 乳母たちをイノシシから守るために立ち向かったように見えたが、実は、イノシシと遊ぼうとしただけなのかもしれない。

 ――なんだよイノシシさん、もう帰っちゃうの?

 という前ガキだったのか。

 しかし、周りの人間たちは、そうはとらない。仔馬が、乳母や将馬たちのいるほうへ戻ってくると、見守っていた人々は拍手で迎えた。

「仲間を守ろうとしたんだね」「勇敢な仔馬だなあ」

 子どもたちに頭を撫でられたり、首に抱きつかれても嫌そうな素振りを見せない。

 テレビカメラやスチールカメラが近づいてきても平然としている。

「この仔馬の名前は?」

 と急にマイクを向けられた将馬が、

「ブライトストーンの2011です」

 と答えると、女性リポーターが一瞬絶句したのち、将馬の顔を覗き込むように言った。

「変わった名前ですね」

「母馬の名と、生まれた年からそう呼ぶのが普通です」

 右足に痛みを感じた。夏美に軽く蹴られたようだ。

「そうなんですか。では、この仔馬のニックネームは?」

「いや、特に……」

「普段どう呼んでます?」

「うーん、『おい』とか、たまに『チビ』とか」

 気づいたら、クルーはもうカメラを回していなかった。

「ごめんなさいね、つまらない男で。気の利いたことが言えない性格なの」

 とリポーターに手を合わせた夏美が、将馬に向き直った。

「杉下君、マスコミ対応はこのNPO法人にとって大切な仕事なんだから、せめて笑顔でお願い」

「はい……」

「こういうときだからこそ、作り笑いで自分たちを元気づけるくらいのつもりで、ね」

 なるほど、と思った。このところ、津波で行方不明になっていた家族や知人が亡くなっていた、という報せを受け取る人が多くなっている。ずっと打ち沈んだままでは、先を見ることができなくなってしまう。

 その夜、テレビの被災地リポートで、このNPO法人「相馬ホースクラブ」が紹介され、心温まるシーンとして、仔馬がイノシシに顔を寄せ、将馬のもとに帰ってくるところが放送された。仔馬が走ったりジャンプしたところは撮影できなかったようだ。仔馬と触れ合った子どもたちの声は紹介されたが、将馬のインタビューはカットされていた。

 翌朝、将馬が厩舎作業をしていると、夏美が新聞を差し出した。

 社会面のトップに、仔馬がイノシシの上を飛び越える、大きな写真が掲載されている。脇の小さな写真は、仔馬に手を差し出すふたりの子どもと将馬のカットだ。仔馬も子どもたちも将馬を見つめ、腰に手を当てた将馬が笑っている。こんな瞬間があったことを忘れていたが、この写真を見て、「さわってもいい?」と子どもたちに訊かれ、「どうぞ」と答えたことを思い出した。

 記事は、これが初回の連載コーナーらしく、コーナータイトルは「絆」となっている。どこで調べたのか、父の代のときに杉下ファームの生産馬が中央の重賞で掲示板に載ったことまで書かれている。

「名馬スペシャルウィークも、生まれてすぐ母と死に別れ、乳母に育てられたという。自身が愛らしい姿をした「絆」となって、人馬の結びつきを確かめさせてくれた、この仔馬。順調なら2年後、2013年の夏ごろには競走馬としてデビューする」

 記事はそう締めくくられている。

「これでこの仔の名前が決まったね」

 と夏美に言われ、

「ああ、はい。スマイルとか、エガオとか、ですかね。笑顔をもたらしてくれたから」
 と答えると、夏美が吹き出した。

「あなた、ギャグも言えるんだ。いや、もしかして、本気で言ってんの?」

「本気も何も……」

「あきれた。『絆』で決まりでしょう」

「キズナ、か」

 将馬がもう一度「キズナ」と口にすると、乳母の乳を飲んでいたキズナは顔をこちらに向け、小さく鳴いた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。前年牧場を継いだばかりの23歳。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の当歳馬。牡。父シルバーチャーム。
ブライトストーン…キズナの母。愛称シロ。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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