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第14話 静と動

  • 2012年09月03日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円の高値で購入された。後藤田が所有する北海道の牧場で馴致、育成されたキズナは、2歳の春、美浦トレセンに近い育成場に移った。そこで将馬は、キズナを担当する女性調教助手に出会った。

『静と動』

 キズナに乗った内海真子が投げつけたヘルメットは、綺麗な弧を描いて将馬の胸元に飛び込んできた。

 それを受けとって途方に暮れていると、また真子が声を上げた。

「今すぐこの馬をあなたの牧場に連れ帰ってください!」

「な、何を……」

 将馬はいくつかの意味で驚いていた。まず、真子の粗暴な振る舞いに対する驚き。その彼女が怒りのあまり状況が見えなくなっているのかと思いきや、将馬が誰なのか理解しているらしいことに対する驚き。そして何より、彼女がキズナに対して敵意を抱いているらしいことへの驚きが大きかった。

 救いを求めるように大迫を見ても、腕を組んで黙っているだけだ。

 真子を背中に乗せたキズナは、将馬と同じく困っているように見えた。

 将馬が真子にヘルメットを返そうとラチに近づくと、キズナもこちらに歩いてきた。

 真子にヘルメットを差し出した将馬の右手に何かが当たった。彼女の涙だった。

 突き返されると思ったが、意外にも彼女はペコリと頭を下げてヘルメットを受けとり、かぶりなおして顎紐を締めた。

「この馬は、福島にいたときからこうだったんですか」

 絞り出すように真子が訊いた。

「こうだったとは……」

「いつも、我慢ばかりしている」

「我慢って、キズナが?」

「そう。右の後ろ脚が痛いのに、それを隠して走ろうとする。本当は走りたくないのに、嫌そうな素振りを見せまいとする。今だって杉下さんに甘えたいのに、大人になったふりをして、杉下さんを安心させようとして我慢している」

 真子がそこまで言ったとき、キズナがブルルッと鼻を鳴らした。

 それを聞いて大迫が息をついた。

「馬は『そんなことないよ』と言ってるんじゃないのか」

「先生はいつもそんな調子で取り合ってくれませんが、わたしは、この仔は競走馬には向かないと思います」

「それはお前が判断することじゃない」

 という大迫の言葉に、真子はさらに眉を吊り上げた。

「この仔の我慢は、前に行きたいのを我慢するとか、馬群のなかで我慢するとか、そういう次元じゃないんです! 火のなかに飛び込んで我慢しろと言われたら、本当に死ぬまで我慢しちゃうような性格なんです。それが伝わってくるから、一緒にいると切なくて、わたしまで苦しくなって……」

「内海、それはいいが、早くキズナを洗ってやれ。お前だってそいつに我慢を強いているじゃないか」

 そう言われた真子は、唇を震わせてうつむき、キズナをターンさせた。

 将馬は、彼女とキズナが洗い場に入るのを見届けてから大迫に訊いた。

「あの女性が、ずっとキズナを担当するんですか」

「ああ。うちはきっちり担当を固定するやり方だからね。心配なのか」

「はい……」

「うちのスタッフのなかでは最適任者だ」

「はあ」

「ああいう性格を『キレキャラ』と言うらしいね。うちに来る前、みんなが彼女のことをそう言うものだから、頭が切れるという意味かと思っていたら、すぐに怒ってキレるキャラクターという意味だとは、参ったよ」

 と肩をすくめるが、言葉ほど参っているようには見えなかった。

 それはさておき、あれほど激しい性格で、しかもキズナの競走馬としての適性に否定的な人間が最適任者とはどういうことだろうか。

 将馬の疑問を察したかのように大迫が言葉をつづけた。

「キズナは、内海の言うとおり、我慢強い性格だ。血統なのか、環境によるものなのかはわからないが、自分が何をしたいのか、何をしてほしいのかをほとんど表現しない」

 確かに、東北人そのものだと思うことがよくある。

「それでも、おとなしくて我慢強いだけの馬ではありません」

 イヤリングでは群れのボスになったし、牧場から脱走して「都市伝説」の主人公になったこともあるのだから。

「わかっている。ただ、内海は、キズナが抑圧されたまま押しつぶされてしまいそうな危うさを感じているのだろう」

 大迫はそこまで言ってから、少し声を低くした。

「実は、私も同じことを感じていたんだ。そして、内海は内海で、まったく正反対の危うさを持っている。キズナと彼女が互いに刺激し合って、やがて支え合うようになり、持っているものを引き出し合ってくれることを期待して、組み合わせたというわけだ」

 そう話す大迫と将馬が向かっているレンガ貼りの立派な建物は、大迫の管理馬専用の厩舎なのだという。

 馬のためにこれだけの環境を整える大迫のすることなのだから、黙って見守るべきなのだろうか。

 真子がキズナを洗い場から厩舎へと曳いて行った。逆光になって表情はうかがえなかったが、人馬の影がひとつにとけ合っているように見えた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。日高町に生産・育成牧場「Gマネジメント」を所有する。
内海真子……大迫厩舎調教助手。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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