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第23話 誤算

  • 2012年11月05日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎え、2歳のデビュー戦を勝った。そして秋の重賞で、超大物と言われるライバルと対決することになった。

『誤算』

 2013年11月、東京スポーツ杯2歳ステークス当日の東京競馬場は、スタンドから富士山がはっきりと望める好天に恵まれた。

 翌年のクラシック戦線の主役と見られている超良血馬マカナリーと、当歳のころから被災馬の星として注目されてきたキズナの初対決が行われるとあって、GI開催日と見紛うほどの観客と報道陣が集まっていた。

 他馬陣営が「二強」に恐れをなしたのか、東京スポーツ杯2歳ステークスの出走馬はフルゲートに満たない13頭にとどまった。単勝1番人気は三好晃一騎乗のマカナリーで1.9倍。上川博貴のキズナは単勝3.7倍の2番人気。10倍以下はこの2頭だけで、2戦2勝の関西馬トニーモナークでさえ15倍以上のオッズだった。

 ポケットで輪乗りをしているとき、キズナの背にいる上川に、マカナリーの鞍上、三好が話しかけてきた。

「ほかの馬は、この2頭に近づいてきませんね」

「そうだな」

「ぼくの馬にこうして寄られても怯まない2歳馬はキズナが初めてです。さすがですね」

 同じ言葉を返してやろうと振り返ると、三好はすでにゴーグルで目元を隠し、表情をうかがうことはできなかった。

「ほかの馬がこっちに来ないのは、あの乗り役連中がおれとお前を嫌がっているからじゃないのか?」

「ひどいなあ上川さん。一緒にしないでください」

 デビュー当初、目標とする騎手に「上川博貴」の名を挙げていた彼も、ずいぶんな口の利き方をするようになったものだ。

 声は届いていないはずだが、ふたりのやりとりを、3番人気のトニーモナークに乗るベテランの柴原がじっと見つめていた。ハイペースで逃げて連勝してきたトニーモナークとしては、マカナリーとキズナが後ろで牽制し合う展開が理想だろう。

 ファンファーレが鳴った。上川は背中に三好の視線を感じながら1枠1番にキズナを入れた。

「キズナの近くであれば、枠は内でも外でもどっちでもいいです」と公言していた三好のマカナリーは、奇数番の馬がすべて入ったあと、キズナの隣の2番枠に入ってきた。

 ゲートが開いた。

 外から出鞭を受けながらトニーモナークがハナに立った。

 新馬戦同様、ゆっくりとゲートを出たキズナは自然と後方の位置取りになった。三好はさらに後ろにつけようと手綱を引き、マカナリーはそれに反発して顔を上げている。

 ――三好のやつ、そこまでしてマークするつもりか。

 おそらくキズナを馬群のポケットに押し込み、外から蓋をするつもりなのだろう。

 相手がしようと思っていることをこちらが先にする――というのは、競馬における戦術の基本である。

 上川は、キズナをグーンと下げ、それから少し手綱をくれてやりながら外に出し、マカナリーを馬群の内に封じ込めた。しかし、次の瞬間、上川はそれを後悔した。馬群のポケットにおさまったマカナリーは、急に全身の力を抜き、ゆったりと四肢を伸ばしながら綺麗に折り合ったのだ。三好がしめしめといった感じで口角を上げている。

「三好5、上川3」というスポーツ紙の評価が思い出された。

 相手が一方的に意識しているかのように思い込んでいたが、気づいたら、こちらのほうが相手を意識して術中にはまろうとしている。

 キズナとマカナリーは、まったく同じリズムで全身の筋肉を伸縮させ、同じストライドで走っている。キズナが前走と同じ440キロ、マカナリーは10キロ増えた500キロと、体の大きさは異なるが、どちらのフォームもきわめて自然に感じられた。

 上川が大迫から受けた指示はひとつだけ。新馬戦同様、小差で勝ってくれ、というものだった。

 新馬戦ではキズナの力がズバ抜けていたからどうにか指示どおりに乗ることができたが、今度は化け物が相手になる。大迫が「小差で」と言ったのは、イコール「今回も力を溜めながら」という意味だろう。しかし、直前の追い切りでも古馬のGI馬を楽に競り落とした化け物相手にそんな芸当ができるだろうか。

 どちらからというわけではなく、ぴったり併せていたキズナとマカナリーの馬体が少しずつ近づき、3コーナーを回りながら、上川の鐙と三好のそれとがぶつかり、甲高い金属音を上げて火花を散らした。

 しかし、両馬ともにストライドを乱すことなく、勝負どころを抜けて行く。

 直線入口、また三好と鐙がぶつかった、と思った次の瞬間、今度は互いの馬体も衝突し、キズナは外、マカナリーは内に進路をとることになった。

 ――ふっ、いけすかないガキだが、やりやがる。

 上川と三好は、阿吽の呼吸でそうしたかのように互いの騎乗馬を弾き飛ばし、前で壁になっていた馬の両脇をすり抜ける形に持ち込み、加速した。1頭、また1頭と挟み打ちにしながらかわして行き、ターゲットは10馬身ほど前の先頭を行くトニーモナークだけになった。

 内のマカナリーと外のキズナは、鼻面を揃えながらも馬2頭ぶんほどの間隔を開けたまま、1完歩ごとにトニーモナークとの差を詰めた。2頭がラスト50メートルほどのところでトニーモナークの両脇をすり抜けようとした瞬間、トニーモナークが外によれ、キズナに馬体をぶつけてきた。

 キズナの左トモが空転するのを感じた上川が、ストライドのリズムを取り戻すべく、キズナの全身を少しだけ強めに収縮させる操作をしたのは1秒もなかったはずだが、その間に内ラチ沿いを行くマカナリーが半馬身ほど前に出ていた。

 ――しまった。これほど出られるとは……。

 誤算だった。

 上川は初めてキズナにステッキを入れた。さらに右の見せ鞭をするとグイッと反応したので、次の完歩も見せ鞭で走らせた。

 三好は凄まじい勢いで右鞭を連打している。

 馬体を併せずに流れ込む算段だろう。

 全身を沈めてストライドを伸ばすキズナが、首、頭、鼻と、マカナリーとの差を縮め、ギリギリ並んだところでゴールした。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……翌年のクラシック候補と言われるディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
トニーモナーク……東京スポーツ杯出走馬。
柴原……トニーモナークに乗るベテラン騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。
藤川……GIをいくつも勝っているリーディングトレーナー。マカナリーの管理者。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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