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第26話 支配者

  • 2012年11月26日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎え、2歳のデビュー戦を勝った。しかし、次走の重賞で、超大物と言われるライバルに惜敗し、2歳王者決定戦の朝日杯FSで再度対決することになった。

『支配者』

 朝日杯フューチュリティステークスのパドックで、上川がキズナの関係者が集まっている一角に近づくと、オーナーの後藤田に手招きされた。

「上川君、記念撮影や」

 彼らとこうしてパドックで写真におさまるのはいつ以来だろう。

 生産者の杉下将馬や、その知人の田島夏美とも写真を撮った。

 キズナが前を通るたびにこちらを気にしている。当歳のときずっと一緒にいた将馬や夏美のほか、育成時代の担当者までいるので、不思議に思っているのかもしれない。いや、あれだけ頭のいい馬なら、正午の時点で10万人を超えた大観衆から漏れるざわめきや衣擦れの音などから、きょうが特別な日であることを理解したうえでここに出てきたはずだ。

 騎乗命令がかかった。

「ミキティ、脚を上げてくれ」

 とキズナを曳いてきた内海真子に左膝を突き出すと、彼女は無言のまま右手で膝を持ち上げた。その手は細かく震えていた。

 上川は左の手綱を引き、キズナの口元を真子の顔に近づけた。キズナは、じっと真子をすぐ近くから見つめている。

「上川さん、何を……」

「お前はもういい。ちょっとどけ」

 と上川は、パドックを周回しはじめた他馬に合流しようとはせず、今度は将馬と夏美にキズナの顔を近づけた。

 そうしてキズナにひと通り関係者の顔を見せてから、わざと乱暴に手綱を操作し、腹を蹴って歩かせた。

 ――今、お前にとって大切な人間たちの顔を見て、どう思った?

 珍しく、キズナが少し戸惑っている。なぜ上川に怒られるかわからないからか。

 ――あいつらだけじゃねえ、ここにいる何万という人間たちはみんな、お前を見にきているんだ。

 興奮してチャカつく馬が多いなか、キズナはいつもどおり悠然と歩いている。もう一頭、1番のマカナリーも前走同様落ちついているようだ。

 ――いや、お前とあの化け物との戦いを見に来たのかもしれない。だが、レースが終わったときには、誰もがお前だけを見に来たかのような気になってしまう、そういう走りを見せてやれ。

 馬道をコースに向かっているとき、頭上から落雷のような轟音が響いた。マカナリーの馬場入りを迎えるファンの声援だろう。それに動揺した何頭もの馬がさらに落ちつきをなくし、ゲート入りする前に脱落していく。

 16番のキズナは、マカナリー以上に大きな声援で迎えられた。

 それでもキズナはまったく動じない。普通なら心強い材料として大歓迎するところだが、キズナに心身ともに「キレ」てもらうつもりでいる上川にとっては、頭を抱えたくなるような状態である。

 上川は、以前大迫から聞いた「キズナは人間に期待されたぶんだけ返そうとする」という言葉を思い出していた。

 ――これだけの期待にどう応える? 今までのようにスカした走りで何とかなるなんて甘い考えだと、化け物には勝てねえぞ。

 キャンターに下ろすときはこれまで同様そっと走らせてやったが、ある程度ほぐれたら、競馬とそう変わらない速度になるよう追い、スピードが乗りかけたところでグーンと手綱を引き、減速したらまた首を押した。そして最後に、地方競馬出身の騎手がやるようにドンと鞍に尻を打ちつけてやった。

 キズナは耳を急激に絞らせ、大きく首を振った。ちらっと覗き見た目は燃えているかのようだった。

 キズナが怒っている。

 ――よーし、いい感じだ。

 上川は、これまでにない手応えを手綱で受けとめながら発走地点へと向かった。

     *

 将馬の競馬新聞を借りて返し馬を見ていた真子が、ぎゅっと新聞を握りつぶして立ち上がった。

「キズナが壊れるじゃない!」

 と歯ぎしりの音が聞こえそうな顔を将馬に向けた。

「いや、きっと上川さんには何か考えがあるんだと思います。それより、ぼくの新聞……」

 突き返された新聞は何カ所も破けていたが、ちゃんと字は判読できる。新馬戦のときから新聞を記念にとっておいてあるのだが、これはこれでいい思い出になるだろう。

 将馬は双眼鏡でポケットの様子を確認した。キズナが輪乗りの列に入ると、自然と他馬が遠ざかっていく。それを見ていると、育成馬時代に群れのボスだったというのもうなずける。時折鶴首になって小刻みにステップを踏む今のキズナは、将馬がイメージとして胸に抱いていた、優しく、人懐っこいキズナではなくなっていることがわかる。

 ファンファーレが鳴り、出走馬がゲート入りを始めた。

 大外のキズナは一番最後に入った。

 一瞬の静寂ののち、ゲートがあいた。次の刹那、場内に悲鳴が上がった。

 キズナが2馬身ほど出遅れたのだ。

     *

 そっと1完歩目を踏み出したキズナの背で、上川は重心を前に移すタイミングを、3分の1呼吸ほど遅らせた。

 キズナは2完歩目も背中を伸ばしたまま踏み出すことになってフォームを乱し、それを自分で修正しているうちに、内の馬たちから2、3馬身遅れてしまった。

 そのおかげで、コースロスなく内に切れ込んでいけるスペースができあがった。

 中山芝1600メートルは、ゲートを出て1ハロンほどのところからコーナーを回り、そのコーナーがもう1ハロンほど行くと急にキツくなるという特殊な形態であるため、外枠の馬が出たなりの競馬をすると、ずっと外を回らされて大きく距離をロスしてしまう。

 それをなくすため、上川は、あえてゲートからゆっくりと出したのだ。2、3馬身の遅れなど、このコースで外を走るロスに比べたら僅かなものだし、そうして遅れたぶん他馬より楽をしたとも言えるわけだから、これはロスのうちには入らない。

 スタンドのどよめきは、上川の耳にも届いていた。最近は、「全馬が5番手の内をほしがる」というフランス競馬の影響なのか、こうしてゆっくりゲートを出す戦術をとる騎手が少なくなっている。驚いたファンが多いのは、そのせいもあるのだろう。

 上川はゆっくりとキズナを内ラチから馬一頭ぶんのところまで誘導した。これまでの2戦とは違い、返し馬のときからカッカしていたので、前に馬を置かないと凄まじい勢いで突っ走っていきそうな雰囲気だ。

 最初のコーナーを回り、3コーナー手前で、ここからどこを通って行こうかと、前を行く馬を一頭一頭観察した。先頭から3、4馬身の絶好位で最内のポケットに入れたマカナリーの鞍上の三好晃一が、脇の下から何度かこちらを確認している。

 ――ん、どうした?

 上川は何もしていないのだが、前にいた馬たちが鞍上の制止を振り切るようにして次々と外にふくれ、キズナの前に道ができた。

 不意に上川は、妙な感覚が全身を駆けめぐるのを感じた。

 一年ぶりの実戦となった有馬記念を圧勝して「帝王」と呼ばれた馬の背にいたときにも、これに似た感覚に襲われ、小さく戦慄した。

 ――今、おれは……いや、おれの馬は、このレースを支配している。

 支配者となったキズナは、自身のために用意された道を進み、そのままマカナリーに追突しそうになった。噛みつきに行ったのかもしれない。

 4コーナーを回りながら、マカナリーが一気に加速した。三好の重心がグッと沈み込み、アクションが大きくなる。

 見事なアプローチだ。10年前の自分よりずっと上手い。

 マカナリーのフットワークも、後ろから眺めていて見ほれるほど素晴らしい。

 しかし、あの馬は化け物ではない。

 化け物は、こいつだ。おれを背に乗せ、唸るようなエネルギーを爆発させようとしている、キズナという芦毛馬だ。

 抑えている両腕がシビれてきた。そろそろ限界だ。

 直線入口、先に抜け出したマカナリーの真後ろを進み、外に他馬がいなくなったところで鞭をクルリと回して右に持ち替え、見せ鞭をして風切り音を聞かせた。

 ドーンとキズナが大地を蹴る音がしたような感じで、上川の全身が揺れた。

 追い出しに入ったところでバランスを崩したのは初めてのことだった。

 キズナの首の上下動が速すぎて、上川の手の動きが追いつかない。

 ――す、すげえ……!

 マカナリーの外に馬体を併せた、と思ったのはほんの一瞬だった。

 キズナはあっと言う間にマカナリーを置き去りにして末脚を伸ばす。三好が鞭を入れる「ピシッ」という音がどんどん遠ざかっていく。

 ――もういい、充分だ。

 と手綱を抑えたら、それに反発してさらに前に行こうとする。

 ――こいつ、もっと加速できるのか。

 手の震えが止まらない。こんなことも初めてだった。

 ゴールした瞬間、体内時計のストップのスイッチを押しそこねてしまい、上がりが何秒ぐらいだったかもわからなくなった。1万回以上乗ってきて、体内時計を狂わされたのもこれが初めてのことだった。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……翌年のクラシック候補と言われるディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。
藤川……GIをいくつも勝っているリーディングトレーナー。マカナリーの管理者。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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