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第30話 戴冠

  • 2012年12月24日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎えた。一度はライバルに敗れるも、朝日杯FSを制し、翌2014年クラシック三冠の第一弾、皐月賞に駒を進めた。

『戴冠』

 第74回皐月賞は、キズナに騎乗する上川博貴が望んでいたとおりの、よどみない流れになった。自分は、縦長になった馬群の後方から、前を行くヴィルヌーヴとマカナリーを見ながらレースを進めればいい。

 これだけ流れてくれると、どこから動いてもまとめて差し切れそうだ。そう思っていたら、先頭を行くトニーモナークが、向正面で一瞬故障でもしたのかと思うほど急激にペースを落とした。場内がどよめくなか、馬群が密集し、前の馬に乗り掛かりそうになる馬や、首を上げて口を割り、フォームを崩す馬が続出した。

 ――そう来たか、柴原さんよ。

 トニーモナークは、ハイペースで逃げ、後続になし崩しに脚を使わせる競馬で結果を出してきた馬だ。前走の毎日杯では、途中までハイペースで流しながら、最後は上がりの決着に持ち込んで他馬を翻弄し、大勝した。

 本番でもある程度揺さぶりをかけてくると思ってはいたが、よもやこのタイミングで動いてくるとは、意外だった。

 百戦錬磨のベテラン、柴原の狙いは何か。

 もともと行きたがるところのあるヴィルヌーヴは、急に遅くなったペースに対応し切れず、折り合いを欠きそうになっている。武原が、片側だけハミをかけたり外したり、さらに拳の位置を微妙に調整するなどして、ギリギリのところでなだめている。

 隙間のない馬群に包まれる形になってマカナリーは、本来の大きなストライドを伸ばし切れず、見るからに走りが窮屈だ。

 あの2頭のリズムを崩すために、策士の柴原はペースを変えたのだろうか。それとも……。

 ターゲットはキズナだろうか。

 いや、馬群が縮まったことにより、スタンド前では20馬身近くあったトニーモナークとの差が10馬身ほどになった。前で壁になっている馬群をさばくのに手間取るかもしれないが、いざとなれば他馬が避ける荒れたインコースに突っ込むか、大外をブン回せばいい。前との距離が短くなったぶん、キズナにとって好都合である。

 それは柴原もわかっているはずだ。

 ということは、彼はただ、このレースを究極の瞬発力勝負に持ち込もうとしているだけなのか。それだけの脚を使える感触を得ているからこその戦術なのだろう。

 有力馬のなかで、ヨーイドンの競馬になるともっとも分が悪そうなのは、どれか。

 ――三好、そろそろ自分から動かないと、お前の馬がまず脱落するぞ。

 上川の思考が伝わったかのように、三好はちらっとこちらを見てからマカナリーを外に持ち出した。

 ――やはり、今の今までキズナを気にして動けずにいたのか。

 マカナリーが内のヴィルヌーヴをかわし、さらにトニーモナークとの差を詰めて3コーナーに進入した。

 すぐさまヴィルヌーヴがマカナリーの真後ろにつけ、一緒にポジションを上げると、スタンドから大きな歓声が上がった。

 ――武原さん、三好の動きにタダ乗りか。相変わらずエゲつないなあ。いや……。

 そのままマカナリーについて行くかに見えたヴィルヌーヴは、3、4コーナー中間地点でマカナリーの外に持ち出し、持ったままの手応えで、マカナリーとその内のトニーモナークをかわしにかかった。

 三好のアクションが大きくなった。

 柴原は右鞭を入れてマカナリーとの併せ馬の形を保とうとしているが、トニーモナークは少しずつ遅れていく。

 ――いいぞォ。そのまま、後ろのことは忘れてガンガンやり合ってくれ。

 キズナの5馬身ほど前で、持ったままの武原を背にしたヴィルヌーヴと、三好に激しく追われるマカナリーが馬体を併せて4コーナーを回り、直線入口に差しかかった。

 その瞬間、上川の両腕に衝撃が走った。

 キズナが自らハミをとったのだ。

 ――そうか、行きたいか。お前も競走馬らしくなったな。

 一気に加速したキズナは、直線に入って手前を替えるとトニーモナークを抜き去り、ヴィルヌーヴとマカナリーに迫っていく。

 ――このまま忍び足で武原さんに近づきたいところだが……。

 そう思って見ていると、武原が右に鞭を持ち替え、手の中でクルリと回した。歓声と、ターフビジョンの映像でキズナの伸び脚に気づいたようだ。

 ――くそ、バレちまったか。

 ラスト200メートル。上川はキズナを外に持ち出し、ヴィルヌーヴとの間に馬2頭ぶんのスペースをつくるぐらいのつもりで、ゴーサインのステッキを入れた。

 キズナが大きく首を使い、さらにストライドを伸ばした。

 ヴィルヌーヴとその内のマカナリーに1馬身ほどまで迫ったところで、武原が右ステッキを振るうのが見えた。

 ――あんたの言葉どおり、ヴィルヌーヴに鞭を入れる展開になったな。ん?

 そのままこちらに馬体を寄せてくるかと思いきや、武原はまた鞭を左に持ち替え、逆鞭を入れた。

 最内のマカナリーが二の脚、三の脚を使ってしぶとく伸びているのだ。

 ――嘘だろう?

 ラスト100メートル。もっと楽にかわせると思っていたが、内の2頭に併せたところで、急にキズナの伸び脚が鈍った。

――お前、何をしているんだ。

 バテたわけではないが、内の2頭のことなど眼中にないかのように、スタンドのほうにキズナの神経が向いている。

 ――まさか、あの若いのと夏美ちゃんを探しているんじゃ……。お前、余裕かましてる場合じゃないぞ!

 左の見せ鞭と逆鞭でヴィルヌーヴに馬体を併せに行き、何度も手綱をしごいてハミを詰め直しても反応しない。

 自分や武原がステッキを入れる音も、併せた3頭の蹄音も聞こえないほど歓声のボリュームが高まり、汗が目に入って視界がボヤけたその刹那、キズナがグッと全身を沈め、ジャンプするかのようにストライドを伸ばし、フィニッシュした。新馬戦のときと同じように、最後の1完歩だけ大きく跳んだのだ。

 勝った。キズナが皐月賞を勝った。

 首差の2着がマカナリー、さらに頭差でヴィルヌーヴが3着、これら3頭に大差をつけられた4着にトニーモナークが粘り込んだ。

 朝日杯のときのようにコース上まで内海真子が迎えに来ているかと思ったら、彼女は「1」と刻印された枠場の前で周囲の祝福に応えていた。

「ミキティ、泣かないなんて珍しいな」

「はい、きょうはそんな余裕、ありませんでした」

 鞍を外して検量室に向かうと、大迫が歩を並べてきた。

「ゴール前、どうした?」

「スタンドを気にして、レースをやめかけたんだ。まだ遊びながら走ってやがる」

「そうか、ともかくよかった。おめでとう」

 と差し出された右手を軽く握り返しながら、

 ――ちっ、また「ありがとう」って言い損ねたじゃねえか。

 と舌打ちした。

 検量室で「おめでとう」と声をかけてくる関係者に共通していたのは、キズナが勝って当然といった様子だったことだ。

 ――ミキティにしても大迫のテキにしても、ダービーも同じように勝てるなんて、簡単に考えてるんじゃねえだろうな。

 道中で動いて、勝ちに行く競馬したマカナリーも、初めて揉まれる展開を経験したヴィルヌーヴも、血統や走りっぷりから、広くて直線の長い東京コースのほうが間違いなくいい。

 あの2頭の走りを反芻すると、口取り撮影のときも、笑顔をつくることはできなかった。

 翌朝、もっとも発行部数の多いスポーツ紙の一面に衝撃的な記事が載った。

「世界一の大馬主、ハマダン殿下がキズナ陣営に金銭トレードのオファー。提示したトレードマネーは30億円!」

 アラブの石油王として知られるハマダン殿下は、所有馬でフランスの凱旋門賞、イギリスのキングジョージVI&クイーンエリザベスステークス、アメリカのブリーダーズカップクラシックなど世界の主要なレースを制している。しかし、若いころから強く勝ちたいと望んでいたケンタッキーダービーだけは、いまだ勝てずにいる。ケンタッキーダービーに勝てる馬を育成するために、自国の競馬場のダートコースにチャーチルダウンズで使用されているのと同じダートを導入するなどしても、栄冠を手にできずにいた。

 これまでたびたびケンタッキーダービー直前にアメリカの馬を高額で購入して出走させたが、結果が出なかった。ここ数年そうしたトレードをせずにいたので、一部では「もう諦めたのではないか」との噂が流れていたなかでのニュースだった。

 その日は朝から馬主の後藤田と誰も連絡をとれなくなっていたこともあり、大迫厩舎の周囲には一般メディアを含めた大勢の報道陣が集まっていた。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の3歳牡馬。父シルバーチャーム。
マカナリー……クラシック候補のディープ産駒。
三好晃一……マカナリーに乗る若手騎手。
ヴィルヌーヴ……クラシック候補の関西馬。
武原豊和……ヴィルヌーヴの主戦。GI最多勝記録などを持つ、日本を代表する騎手。
トニーモナーク……強い逃げ馬。
柴原……トニーモナークに乗るベテラン騎手。
大迫正和……キズナを管理する、美浦トレセンのカリスマ調教師。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
田島夏美…将馬の高校時代の先輩。馬を扱うNPO法人代表にして、由緒ある神社の禰宜。
内海真子……大迫厩舎調教助手。キズナを担当。安藤美姫に似ている。

※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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