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シンガポールにおける通算勝ち星が300勝に到達した高岡師

  • 2014年01月08日(水) 12時00分
 ネットケイバを御愛顧下さっている皆様、遅ればせながらではございますが、新年明けましておめでとうございます。99年12月に開設され、オンライン競馬メディアの雄と言われるまでに成長したネットケイバは今年、15年目という節目の年を迎えます。その執筆陣の末席を占めるものとして本年も、読者の皆様にとりまして興味深い話題を判りやすくお伝えできますよう、全力を尽くす所存です。「世界の競馬」を、本年もどうぞ御贔屓くださいますよう、心よりお願い申し上げます。

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 今年は世界の競馬は、元旦に飛び込んで来たおめでたい話題とともに幕を開けた。

 1月1日にシンガポールのクランジ競馬場で行なわれた開催の第3競走に組まれた、クラス4のハンデ戦(芝1800m)を、ダンジブルアセッツ(セン6、父ステイゴールド)が優勝。ダンジブルアセッツを管理する高岡秀行調教師(57歳)の、シンガポールにおける通算勝ち星が300勝に到達。03年1月から現地に拠点を置いている高岡師にとって、丸11年かけて到達した大台だった。

 ホッカイドウ競馬で騎手として524勝を挙げた後、92年にNARの調教師資格を得た高岡師は、96年9月26日に旭川競馬場で行なわれた北海優駿をクローリバーで制して重賞初制覇。98年12月には門別で行われたヤングチャレンジCをトウショウラッキーで、99年11月には門別で行われたG3北海道3歳優駿をタキノスペシャルで制するなど、着々と実績を積み重ねた。

 そして、ナミでG3エーデルワイス賞を制した00年、年間で54勝を挙げた高岡師は、ホッカイドウ競馬におけるリーディングを獲得。NARグランプリの優秀調教師賞を受賞するなど、地方競馬を代表する調教地の一人としての地位を獲得した。

 そんな高岡師に転機が訪れたのが、開業から丸10年が経過した02年だった。クランジ競馬場を訪れた師は、ファンがおおいに盛り上がるシンガポールの競馬に魅せられたのだ。

 シンガポールターフクラブの前身であるシンガポールスポーツクラブが創設されたのは1842年だから、実はシンガポールにおける近代競馬の歴史は、日本よりも古い。基幹競走であるシンガポールゴールドCの創設は1924年で、これも1932年創設の日本ダービーに先んじている。

 観戦スポーツとしてそれなりの人気を博していたシンガポールの競馬が、劇的に発展するきっかけとなったのが、1988年だった。この年、馬券を通じて上がる収益を管理する政府組織シンガポールトータリゼーターボードが設立され、売り上げを賞金に還元するシステムを再構築。同時に、1965年の独立以降、輸出型の経済国家として発展していたシンガポールが、IT化の波に乗って急激な経済成長を遂げたのが90年代で、そんな背景にも後押しされてシンガポールの競馬が発展。世界で最も美しい競馬場と言われたブキティマが、交通渋滞や騒音問題など周辺環境の悪化によって移転を余儀なくされ、新たにクランジ競馬場が開場したのが2000年3月で、シンガポール航空が後援する国際競走のインターナショナルCが創設されたのも、同じ時期であった。

 言うなれば、高岡師がかの地を訪れた02年とは、シンガポールの競馬がまさに弾けようとしていた、その時だったのだ。

 一方で、師の拠点であったホッカイドウ競馬はと言えば、赤字経営が深刻化し、97年をもって函館、岩見沢、帯広での開催を中止。存続の危機が叫ばれていた時期だった。

 そうした背景があったことは確かだが、それでもなお、この段階で高岡師が下した決断は、失礼を承知で記させていただければ、「英断」と言うよりは「暴挙」に近いものであった。高岡秀行調教師は、祖国日本を離れ、シンガポールにおける開業を決意したのである。

 高岡師にとって、これは2つの意味で大きな挑戦だった。

 1つは言うまでもなく、語学がそれほど堪能でなかった師が、新天地で、地元の馬主、スタッフ、関係者と、果たしてうまくやっていけるかという、高岡師自身にとって非常に高いハードルが待ち受けていたこと。

 そしてもう1つは、この時の移籍が日本産馬を引き連れてのものであったこと。日本から連れて行くサラブレッドが、高温多湿というシンガポールの風土に順応出来るかどうか。

 そもそもの問題として、ホッカイドウ競馬で走っていた馬たちが、能力的にシンガポールで通用するのか。日本の生産界で、国外に販路を求めるべきとの機運が高まっていた時期でもあっただけに、シンガポールにおける高岡厩舎には、日本の生産界の近未来も託されていたのであった。

 数字は、移籍当初の高岡厩舎が必ずしも順風満帆ではなかったことを示している。開業以来3年間の勝ち星を列挙すると、03年が6勝、04年が11勝、05年が17勝。メジャーな競走における勝利もなく、聞くところによると、当時は経営も逼迫していたそうだ。

 だが、腕のある男は、徐々にではあるが異国でも真価を発揮しはじめた。

 潮目が変わったのは、06年だった。この年の2月、管理馬のダイヤモンドダスト(父ライヴリーワン)がG3コミッティープライズ(芝1600m)を制し、重賞初制覇を果したのだ。ダイヤモンドダストは、03年のHBAトレーニングセールに上場され、高岡師の目にとまった馬だった。市場では主取りとなった後、直接交渉で高岡厩舎に所属することになっ同馬による重賞制覇を含めて、年間で42勝をあげた高岡厩舎は、移籍4年目にして反転攻勢に出るきっかけをつかんだ。

 そして、06年のひだかトレーニングセールにて500万円で購入したエルドラド(父ステイゴールド)が、08年11月30日に行なわれたG1シンガポールゴールドC(芝2200m)に優勝。エルドラドは09年、11年にも同競走を制し、シンガポール競馬史にその名を残す名馬となった。

 09年には、06年のHBAオータムセールにて300万円で購買され、他の厩舎でデビューした後に高岡厩舎に移籍してきたジョリーシンジュ(父ジョリーズヘイロー)が、G1パトロンズホウル(芝1400m)、G2シンガポールダービートライアル(芝1600m)、G1シンガポールダービー(芝2000m)を制覇し、シンガポールにおける4歳3冠を達成。

 13年にも豪州産馬のベターライフ(父スマーティジョーンズ)でG1シンガポールダービーを制し、移籍当初に語っていた「ダービー制覇」という目標を、既に2度にわたって達成している。

 こうして、雌伏の時を経ながらも成功を収め、シンガポールにおける勝ち星が300まで積み上がった高岡師。その活躍は、あらゆる意味で称賛されてしかるべきもので、日本の馬産に対して果たしている貢献も計り知れないものがある。

 管理馬を引き連れて日本を舞台とした国際競走に凱旋帰国、という場面を、ぜひ近い将来に見てみたいものである。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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