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第236回英オークスが歴史的名調教師ヘンリー・セシルの追悼競走として行われることに

  • 2014年02月26日(水) 12時00分


◆“He is a true Legend(=彼こそ真の伝説である)”

 6月6日(金曜日)にエプソム競馬場で行なわれる第236回オークスが、「イン・メモリー・オヴ・ヘンリー・セシル(=ヘンリー・セシル追悼競走)」として施行されることになった。主催するエプソム競馬場が発表したものだ。

 昨年6月11日に70歳で生涯を閉じた、競馬発祥の地イギリスにおける歴史的名調教師ヘンリー・セシル。晩年に手掛け調教師生活の集大成となった無敗の名馬フランケルで制した数々のレースや、4度にわたって制しているダービーなど、セシル師と所縁の深いレースはたくさんあるが、追悼競走と銘打って開催するのなら、最も相応しいのはオークスをおいて他にあるまいと筆者も思う。

 オークスと言えば生涯で8勝と、セシル師が他のどの3歳クラシックよりもたくさん勝ったレースであり、英国競馬史に残る名場面といわれた感動的な光景が展開されたのが、8勝の中の最後の1勝となった07年のオークスだったからだ。

 ヘンリー・セシルのクラシック初制覇は、ボルコンスキーで制した1975年の2000ギニーだった。鞍上にいたのは、当代随一の名手フランキー・デトーリの父、ジャンフランコ・デトーリだ。これを皮切りに、生涯で手にした英国3歳クラシックが25。そして、クラシック初制覇の翌年に初めてチャンピオントレーナーのタイトルを手にすると、生涯でその座の就くこと10回という、途轍もない記録を残している。

 ネクタイはエルメスで、靴はグッチ。スタンド最上階に立ち、葉巻を燻らせながら馬場を見下ろすのがお決まりのポースだったセシル。頭の回転が猛烈に早く、テレビや雑誌のインタビューにはいつも、速射砲のように言葉を紡いで答えるのが常だった。その独特のキャラクターから、記録だけではなく関係者やファンの記憶にも、いまださめやらぬ強烈な印象を残している男だ。

 日本のスポーツ界では今、Legend=レジェンド(伝説)という言葉が流行しているが、ヘンリー・セシルの死に際し、生前の印象を問われた障害のトップトレーナー、ポール・ニコルスが残したのが、“He is a true Legend(=彼こそ真の伝説である)”という言葉だった。

 英国競馬の支配者として君臨したヘンリー・セシルだったが、そんな彼も、栄枯盛衰の習いと無縁ではなかった。70年代から90年代にかけて、常に英国競馬における主役の座にあった彼の成績が、今世紀に入る頃から急速に下がり始めたのだ。

 伏線となったのが、90年代後半に起こった、いくつかの予期せぬ出来事だった。

 最初の躓きは、大馬主との決別だった。オーソーシャープによる3冠制覇など、数々の栄光をともにしてきたシェイク・モハメドが、全ての所有馬をセシル厩舎から引き上げたのは、1995年9月のことだ。有力馬マークオヴエスティームの状態に関する報告に齟齬があったことをきっかけに、長年の蜜月関係が修復不能な状態にまでこじれてしまったのである。

 離婚を経験したのも、同じ頃だ。妻と、主戦契約を結んでいた騎手との間に密通の噂が流れるという、スキャンダラスな展開の末の離婚で、ヘンリーは心にひどい傷を負った。

 ヘンリーにとって更に大きな打撃となったのが、2000年11月に訪れた、双子の弟デイヴィッドの死だった。彼らが生まれる半年前に、空挺部隊に所属していた父ヘンリー・シニアがパラシュート事故で他界。父の顔を知らない者同士、助け合って生きてきた弟が他界したことで、ヘンリーは心の支えを失った。

 2000年6月にビートホロウでパリ大賞典を制したのを最後に、G1勝ちがピタリと途絶え、2001年にはリーディングトップ10から脱落。そこから先はまさしく坂を転げ落ちるようにランキングが下がり続け、2005年には年間収得賞金がわずか14万5千ポンドでランキング97位と、栄華を誇った時代に比べると信じがたいほどの凋落ぶりを見せたのである。

 かつて200頭を越えた管理馬も、60頭を切るところまで減少した。

 そして、2007年のシーズン開幕前、ヘンリー・セシルは自らが癌に冒されていることを公表。セシルの時代は終わったと、誰もが思った。

 その年のオークスに、ヘンリー・セシルは、癌と闘いながら仕上げた2頭の管理馬を出走させた。1頭は前年の11月、仏国の2歳G1クリテリウムドサンクルーを制し、セシルに6年5か月振りのG1をもたらしたパッセージオヴタイム。そしてもう1頭は、デビュー3戦目で初勝利を挙げてから3連勝で前哨戦の1つLRチェシェアオークスを制したライトシフトだった。

 ゴール前で抜けたのは、1番人気に推されていたパッセージオヴタイムではなく、4番人気のライトシフトだった。

 エプソムのウィナーズサークルに、照れたような笑みを浮かべたヘンリー・セシルが足を踏み入れようとした、その瞬間だった。スタンドを埋めた観衆から期せずして、セシルコールが起きたのだ。

 イギリスの競馬場で、観客が声を揃えて勝者の名を叫ぶことは、実は滅多に見られる光景ではない。

 振り返って観客に応えようとしたセシルの顔が、嗚咽を抑えようとして歪み、滂沱の涙が頬を伝わるという、今思い返しても目頭が熱くなるシーンが展開されたのである。

 その、思い出がたくさん詰まったオークスデーのエプソムで、果たしてどのようなセレモニーが行なわれるのだろうか。

 かなうものなら、その場に我が身を置いておきたいのが、2014年6月6日のエプソムである。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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