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森田直行調教師(2)『親友・矢作芳人調教師も関心の処世術』

  • 2014年05月12日(月) 12時00分
おじゃ馬します!

▲矢作芳人調教師と29年来の親友という森田直行調教師

JRAの長い歴史の中で、厩務員からダイレクトに調教師となった第一号の森田調教師。意外にも、挑戦のきっかけとなったのは、厩舎の同僚の言葉。そもそも、競馬の世界に入るつもりすらなかったといいます。それが、何かに導かれるように競馬の世界に身を置き、いまや調教師。親友・矢作芳人調教師もビックリの、道を切り開いてゆく秘訣とは。(第1回のつづき、聞き手:東奈緒美)


◆23歳という遅いスタートで競馬界へ

 森田調教師と競馬との関わりというのは、どんなきっかけだったんですか?

森田 父親が中村覚之助厩舎という、今の中村均調教師のお父さんの厩舎で調教助手をしていたんです。父親はもともと、下乗りだったんですよ。今で言う、騎手候補生。それが腰骨を骨折してしまって、騎手を断念して。幸い、何か月かして良くなって、地方の名古屋競馬で騎手になったんです。騎手を辞めた後、中京競馬場で調教助手になって、僕もトレセンに来たわけです。

 お父様は元地方ジョッキーだったんですね。

森田 そう。だから、僕も騎手になりたかったんですけどね。父親は背が158センチしかなかったんです。僕も小学校6年生の時で146センチしかなかったから、「あぁ、これなら騎手になれるな」と思って。そうしたら、3年間で30センチ近くも伸びてしまいました。

 メキメキと(笑)。

森田 メキメキもメキメキで、最終的には175センチにまで伸びましたからね。母親が160センチあったから、母親に似てしまったんですね。それで騎手になるのは諦めました。

 騎手課程は諦めて、厩務員課程でと。

森田 いやいや、そんな気もなかったんですよ。23歳まで普通に会社員をしてました。ところが、父親の腰が悪化してしまって、トレセンを辞めざるを得ないくらいになってしまったんです。それで、「息子だけでも競馬に関わって欲しい」と言われましてね。そう言われたら、断れないですよね。それで、この世界に入ったんです。

 それまで馬に関わっていなかったということは、また一から競馬学校に行き、馬乗りの技術を学んで、ということですよね。

森田 そう。しかも23歳からですからね。スタートは遅かったんです。

 まったく違う世界から初めて馬の仕事をされた時というのは、どういう思いでしたか?

森田 最初はそこまで深く考えていなかったと思います(苦笑)。まぁ、仕事は楽しかったですし、お金も稼げましたしね。今ではこうして調教師にもなれましたし、厩務員になって良かったんじゃないかなって思いますよ。

 なんだか森田調教師の人生は、予想外の方向にも行きながらも、最終的にいい方向に進んでいる感じがします。

森田 そうそう。まさにそうなんですよ。僕の場合、何でも人頼りといいますか。周りの人が導いてくれるようなところがあるんですよ。競馬界に入れと言ったのも父親ですし、調教師試験を受けろと言ったのも西谷さんだし。その通りにしていてたら、なんだかんだうまいこといってますね。矢作さん(調教師)と29年来の親友なんですけどね、「お前はテキトーなのに、なんだか最後にはうまいこといってるよな。なんでだろうな」って、いつも不思議がられますよ。

 でもそこには、努力もあったからだと思います。やりたいと思ってもできないことだったりしますので。

森田 いやいや。矢作さんの言う通りなんですよ、本当に。

 ということは、力を抜いていくことも大切なんですね。

森田 ははは。うまいことを言う(笑)。

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▲東「力を抜いていくことも大切なんですね」


◆福島厩舎での仕事が、今でも活きている

 厩務員さんとしてのキャリアが27年。最初に入られたのが長浜彦三郎厩舎で、長浜博之調教師のお父様ですよね。

森田 そうです。彦三郎先生のところでお世話になって、先生が亡くなられたので、博之先生が厩舎を引き継いだんです。ちょうどその時に福島信晴厩舎が新規開業するというので、それで福島厩舎に行くことになりました。

 福島厩舎には18年もの間在籍されました。どんな厩舎だったんですか?

森田 福島先生は、スタッフに自由にやらせてくれたんですよ。エサは厩務員が自由に決めてよかったし、調教も助手と相談して決めていいという方針。それがすごく勉強になりました。

 自分で考える方が人が育つというのが、福島先生のやり方なんですね。

森田 普通なら調教師の指示通りにしないといけないところを、全部やらせてもらいましたからね。だから「馬を走らせたい」と思って、いろいろと試行錯誤しました。栄養学とかスポーツ科学とか、獣医学なんかも勉強して、「こうしたら馬が走るんじゃないかな」と考えてね。

 獣医学までですか。いろいろ試してみて、「これがいい」「これは改善しよう」とされて。その中で、「失敗したな」とか「難しかったな」という思い出もありますか?

森田 ありますよ。昔はオーバーワーク的な調教が多かったですからね。距離を走らせないと不安なところがあったんでしょうけど、それで脚元が悪くなったりもしたんです。エサも、例えばタンパク質を与えるといい体になると思われていたんですけど、タンパク質ってあまりあげすぎると弊害もあるんですよ。呼吸数とか心拍数が増加して、バテやすくなったり。

 それは知らなかったです。

森田 プール調教なんかも自由にやらせてもらったんですけど、何周回れば効果があるとか、逆にどれくらいやってしまうと鼻血が出やすくなるかとか、そういうこともだんだんと分かってきました。しかも、プール調教の帰りに診療所に寄って内視鏡で診てもらっていましたからね。そういうことも、いち厩務員の自分の判断でやらせてもらっていたんです。

 診療所って行くと治療費がかかるので、調教師さんが細かく指示されたりしますもんね。本当に、そこまで自由にさせてもらえるのって、なかなかないですよね。

森田 そうなんですよ。あの時に勉強したことが、開業にあたって本当に役に立っていますね。自由にやらせてもらった経験が、今一番、役に立っているかもしれないです。(次週、第3回につづく)

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▲森田「福島厩舎での厩務員経験が、今一番役に立っています」


森田調教師 プロフィール


【次回予告】
1989年から18年間、福島信晴厩舎の厩務員として、馬作りの技術を磨いてきた森田直行調教師。福島調教師の方針で、スタッフが自主的に動ける環境にあり、積極的な仕事ができたと言います。その中で、同僚の言葉をきっかけに一念発起。2001年から難関の調教師試験を受ける事に。しかしその矢先、奥様のガンが発覚。悲しみと不安の中、自分を奮い立たせての戦いが始まりました。

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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