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森田直行調教師(3)『病と戦いながら森田師を支え続けた奥様』

  • 2014年05月19日(月) 12時00分
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1989年から18年間、福島信晴厩舎の厩務員として、馬作りの技術を磨いてきた森田直行調教師。福島調教師の方針で、スタッフが自主的に動ける環境にあり、積極的な仕事ができたと言います。その中で、同僚の言葉をきっかけに一念発起。2001年から難関の調教師試験を受ける事に。しかしその矢先、奥様のガンが発覚。悲しみと不安の中、自分を奮い立たせての戦いが始まりました。(第2回のつづき、聞き手:東奈緒美)


◆病床で訴えた思い、「逃げたらあかん」

 福島厩舎に20年近く在籍されて、その間の2001年に、初めて調教師試験を受験。そこから11年もの長い受験生活となるわけですが、2007年に松田博資厩舎に移籍されました。

森田 ええ。メリット制で、福島厩舎の馬房が2つ減ったんですよ。それで、誰が行くかみんなで話し合ったんですけど、「僕はなんとしても行かせてほしい」と言ったんです。その頃、娘2人が高校と大学に行くので、お金が必要だったんです。他の人は独身だとか、結婚していても子どもが大きいとかだったので、僕が一番入用だったんですよね。それで、より稼げる厩舎に行きたいなと。

 高校大学はお金が要りますもんね。でも、環境が変わると、お仕事の拘束時間も変わってきますよね。勉強の仕方も変わったんじゃないですか?

森田 労働時間は長かったですからね。だからもう、誰とも話さなかったですよ。話している暇があったら勉強する。まぁ、みんなには変人扱いされましたけどね(苦笑)。

 皆さん、森田先生が調教師試験を目指していらっしゃるのはご存じだったわけですよね?

森田 知っていてもやっぱり、「変なやつだな」と思いますよね。だって、1日の中で挨拶しかしなかったですもん。だから「暗い」とか言われましたし。

 たしかに、入って来てどんな人か分かっていないところで、全然しゃべらないってなると…。でも、それくらい時間を惜しまれていたんですね。

森田 ちょうどその頃、初めて1次試験に受かったんです。それもあって、1年中勉強でしたからね。だからもう、人の目は気にしていられなかったですね。

 その間に、奥様がご病気になられたということで、またさらに。

森田 ええ。試験を受け始めた時に、ガンって分かりましたからね。看病しないといけないですし、家の事も自分でしないといけなかったですから。その頃は余計にきつかったですね。

 辞めようとは思われなかったですか?

森田 嫁さん、いついなくなってしまうかも分からないですし、酒に逃げていた時もあったんですよ。勉強もせずにね。もう、しんどくてしんどくて。そんな時に嫁さんがね、「逃げたらあかん」って言うんです。「なんでそんなに逃げるの? 逃げたらあかんよ」って。

 ご自身も辛い中で、励ましてくださって。

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▲東「奥様はご自身が辛い中でも先生を励まして」


森田 そうなんですよね。嫁さんは最期まで、弱音を吐かなかったんです。「痛い」って、一度だって言ったことがなかった。そんな嫁さんの言葉と姿勢を見ていて、自分も最後までやり遂げようと思えたんです。嫁さんの後押しがなかったら、こうして今、調教師にはなれていなかったでしょうね。

 奥様も一緒に頑張られていたんですね。強い方だったんですね。

森田 そうですね。最期だけね、涙を流したんですよ。病室で寝ている嫁さんをパッと見たら、左目から涙がつたって。それが息を引き取る前日でした。結局、合格の報告ができずに亡くなっていったんですけどね。もう3年も前のことです。

 合格された時は、奥様に報告に行かれたんですか?

森田 行ったんですけど、すぐに帰って来ちゃいました。泣けてくるから。だから、お墓にもあまり行ってないんです。余計寂しくなってしまいますからね。

 そうなんですね。でも、今の先生の姿に、絶対に喜ばれていますね。

◆今はふたりの娘さんに支えられて

森田 本当はね、合格発表を聞く前、「次の年でダメだったら、もう辞めよう」と思っていたんです。51歳でしたし、さすがに…って。でも、競馬学校時代の元教官の方々が「絶対に諦めるな」って言ってくれたんです。公正室に毎年願書を取りに行く度に、「もういい加減諦めろ」って言われるかなと、ビクビクしながら行っていたんですけど、そこでも「お前、諦めへんやろな」「諦めたら駄目だぞ」って言われて。

 喝を入れられたんですね。

森田 そう。「もう僕は受からないんじゃないですかね」なんて言うと、「そんなことはない、諦めるな」って言われましてね。それで、ここまで頑張れたのもあるんです。さっきも言ったように、僕はみんなを頼って生きている人間ですので。

 それだけ思ってくれている人がいるというのが、先生の人望だと思います。

森田 危なっかしいからじゃないですかね? 危なっかしいから、みんながフォローしてくれるんですよ。

 放っておけない感じなんですかね? おふたりの娘さんも、「お父さん、放っておけない」っておしゃっているんじゃないですか?

森田 そうなのかもしれない。20歳と22歳なんですけど、なんでもしてくれますからね。3人で一緒に寝ていますし。試験に受かった時は、1週間ぐらいずっと娘が抱きついて寝ていました。「腕枕して」って言うから、両腕で腕枕して(照笑)。

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▲森田「今はふたりの娘が支えてくれています」


 いいですね。それは幸せですね。娘さんも、お父さんとお母さんの姿を見ながら一緒に頑張ってきて。だから、本当にうれしかったんでしょうね。

森田 まぁ、そう言いながらも、娘も嫁さんも、「もう頑張らんでいいよ」って言っていたんですけどね。2次試験に落ちた時には「もう辞めとき」って言われたこともありますよ。

 それって、あまりに頑張っている姿を近くで見ていて、心配になってしまったとか…。

森田 うん。そうみたいですね。「それだけ一生懸命やって受からないんだったら、もう頑張らんでいいよ」って。試験の3か月前になると、ベッドでは寝なかったですしね。ソファで勉強して、ウトウトして、ハッと起きてまた勉強して。朝までそれの繰り返しで。

 何時間寝たというほども寝ていないぐらい…。それは、そばで見ているご家族は心配になりますね。そうやって家族みんなで戦ってきての、「今」なんですね。(次週、第4回につづく)


【次回予告】
家族や周りの方々の支えを力に、11年もの受験生活を見事に実らせた森田直行調教師。厩舎開業までの1年間は“技術調教師”として、親友の矢作芳人厩舎で修業をすることになりました。新人調教師にとって、厩舎経営のノウハウを学んだり牧場を回ったりと、大切な1年間。そこで森田師は、人一番貴重な経験をしたといいます。今春晴れて自分の城を持った森田師。未来に心躍らせる今、親友と叶えたい夢があります。

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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