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【ダービー特別企画】89年の勝ち馬ウィナーズサークルと松山康久元調教師が再会【動画有り】

  • 2014年05月27日(火) 18時00分
第二のストーリー


◆史上初!芦毛&茨城県産のダービー馬

 1989年に行われた第56回日本ダービーは、初物づくしであった。昭和から年号が変わって、平成元年の開催。そして力強く先頭でゴール板を駆け抜けたウィナーズサークルは、日本ダービー史上初の芦毛、かつ史上初の茨城県産の優勝馬であった。馬主は栗山博氏、生産は栗山牧場、管理していたのは美浦の松山康久調教師である。

 その翌年にアイネスフウジンが優勝した日本ダービーでは、約19万人という世界レコ―ドの入場者数を記録したことからもわかる通り、ウィナーズサークルもまた、競馬ブームの真っ只中に、たくさんのファンを沸かせた1頭と言っても良いだろう。

 ウィナーズサークル(牡28)は現在、茨城県笠間市にある「東京大学農学生命科学研究科高等動物教育研究センター」(以下、東大牧場と略)で、余生を過ごしている。

 今年2月28日に調教師を引退した松山康久氏と栗山牧場の栗山英樹氏とともに、ウィナーズサークルのもとに向かったのは、5月23日のことだった。

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▲栗山牧場に立ち寄り、ウィナーズサークルが仔馬時代に過ごした放牧地を見つめる松山氏


 東大牧場への道中は、昔話に花が咲いた。馬主の栗山博氏は江戸崎町(現・稲敷市)の町会議員を務めた町の名士でもあったが、ウィナーズサークルのダービー出走時は、観光バスをチャーターし、総勢100人ほどの応援団で、東京競馬場に駆け付けたという。

 北海道に比べると土地が狭く、主要な種牡馬もすべて北海道にいる。茨城県でサラブレッド生産を行うのは不利と思われたが、それでも「茨城県で北海道に負けない馬を作る」という栗山博氏の強い信念のもと、生産を続けていた。栗山牧場主力の繁殖だったクリノアイバーに、シーホークを種付けるよう進言したのは松山康久氏だった。松山氏の父の松山吉三郎厩舎で天皇賞を兄弟制覇したモンテプリンスとモンテファストをはじめ、ダービー馬・アイネスフウジンや、重賞4勝のスダホーク、地方所属時代に中央のオールカマー勝ちを収めたジュサブローなど、スタミナ型の産駒を数多く輩出して、一世を風靡した種牡馬だった。

 クリノアイバーはシーホークのいる北海道に渡り、種付けをして栗山牧場に戻ってくる。そして生まれたのが、芦毛のウィナーズサークルだった。

「生まれてからそんなにたたないうちに見に行ったけど、あまり悪さをしない馬だったね」と松山氏が当時を語れば、栗山氏は「お母さんはうるさかったですけど、ウィナーズサークルは手間がかかりませんでした」と答えた。

 栗山氏は育成時代の同馬に騎乗した経験もあるが「乗った感触は、やはり他の馬とは違っていた」という。

◆13年ぶりにウィナーズサークルと再会

 目指す東大牧場は、常磐自動車道の岩間インターチェンジを降りてから数分のところにあった。事務所で受付を済ませて、伝染病を防ぐために長靴に履きかえて消毒をして、牧場内に入る。

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▲松山氏からウィナーズサークルへにんじんの差し入れ!


 緑の放牧地の奥に、真っ白な馬がいた。訪問者に気づいて、首を上げてこちらの様子を伺っている。

「ウィナーズサークルですよ」と技術専門職員で獣医師の遠藤麻衣子さんが教えてくれた。放牧地の脇には手作りの「ウィナーズサークル」の看板が立てられていた。

 その看板を作った技術専門職員の鈴木一美さんと松山氏が放牧地に入り、白い馬に近づいていった。鈴木さんが無口を着け、芦毛の馬体が放牧地の奥から引かれてこちらに歩いてくる。その足取りは、悠然としていた。


「北海道の本桐牧場から東大牧場に移ってきた時に会って以来だから、どれくらいたつのかなあ」、松山氏は記憶を手繰り寄せるような表情になった。

 種牡馬として繋養されていた北海道三石町の本桐牧場を退厩して、ここ東大牧場に移動してきたのが2001年1月のことだから、およそ13年振りの再会だ。

 久し振りに会ったウィナーズサークルのそばに松山氏は寄り添い、顔や首筋を撫でている。ウィナーズサークルは、時折目を細めながらじっと佇んでいた。

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「筋肉も落ちていないし、毛ヅヤも良いですよ。さすが東大牧場が管理しているだけありますね」、松山氏が笑顔を見せる。

「本当に28歳のわりには、元気ですよねえ」と栗山氏も嬉しそうに言葉を継いだ。

「馬がキラキラしているね。目の色が良いのにビックリしたよ。関節もしっかりしているし、歯が良いんだよね、この歯が!」、松山氏がウィナーズサークルの口元をのぞきこんだ。この年齢で歯がしっかりしているというのも、若さの秘訣のようだ。

 ウィナーズサークルの張りのある馬体や、しっかりした歩様に2人が感嘆の声を上げていると、「至って健康ですね。私がここに来てからも、熱ひとつ出したことはないです。1回歯を削ったくらいで…それも私の練習で削らせてもらっただけなんですよ(笑)」と遠藤さんも楽しそうに話してくれた。

「このままいったら、日本一の長寿になるんじゃないのかな?」松山氏の言葉通り、サラブレッドの最長寿記録を持つシンザンの35歳3か月の記録を更新するのも夢ではないかもしれない。

◆ミスターシービーの三冠と並んで忘れられない一戦

 東大牧場に来てからも少頭数に種付けを行っていた同馬だが、2007年をもって種牡馬を引退。以降、功労馬として東大牧場で過ごしてきた。

「以前いたモンテプリンスは気性が激しくて、私は触れなかったですけど(笑)、ウィナーズサークルは穏やかですね。腹黒い悪さをしないですしね(笑)。ちょっとした悪さをして『ダメッ』って叱ったら、『ごめんなさい』という仕草を見せてくれますし、非常にわかりやすくて面白いです」(遠藤さん)

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 朝8時から放牧地で草を食み、15時くらいに馬房に帰る。これがウィナーズサークルの日課だ。夏場は早めに厩舎に戻すが「汗をダラダラかきますけど、飼い葉を良く食べてくれますから、夏バテはしないんですよね。今日は松山先生が大好きな人参をたくさん持ってきてくれましたから、しばらくおやつとして楽しめそうですね(笑)」(遠藤さん)

 2か月に1度、装蹄教育センターの学生の削蹄実習や、東大獣医学科の学生の採血実習にも一役買うこともある。「その時も大人しくしていますし、本当に性格が良いですよね」と遠藤さん。取材中も終始穏やかで、すべてをわかっているというような哲学的な表情をしていたのが、印象的だった。

 再会の時も、終わりに近づいてきた。最後にウィナーズサークルを囲んで記念撮影をすることになった。

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▲左から松山氏、遠藤さん、鈴木さん、栗山さん


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「まるで競馬の口取り写真みたいだね(笑)。実はこの馬が2着に来た皐月賞が、ミスターシービーの三冠と並んで、僕の中では記憶に残るレースなんですよ。この馬の能力は結構高いところにあると思っていたのに、なかなか結果が出なくてね。シーホークの子は口が硬くて前に行きたがるところがありますけど、皐月賞は不良馬場で滑りながら走っていたせいか、引っ掛からずに道中進んでくれて…。でも4コーナーではまだ後ろの方だったから、もうダメかなと思っていたら、直線でワーッと伸びてきてね。あの時は嬉しかったなあ」(松山氏)

 デビューから4戦目で未勝利を脱し、昇級して3戦目で400万下(当時)条件に勝ったように、その歩みは決して速くはなかった。しかし400万下条件を勝っていきなり挑戦した皐月賞で2着となり、ダービー出走のチャンスを掴み、優勝まで果たしたというのは、当時としては異例のステップだったのだ。松山氏の脳裏に、当時の記憶が鮮やかに甦ってきたようだ。ウィナーズサークルも、時折うなずきながら、松山氏の話に聞き入っているようだった。

 カメラに収まった人々の表情は、晴れ晴れとしていた。28歳には見えないほどの若さを保つ1頭の芦毛が、人々に癒しと活力を与えてくれたのかもしれない。ふとそう思った。

 ウィナーズサークルが先頭で駆け抜けた日本ダービーから、25年の歳月が流れた。今週末、第81回日本ダービーが行われる。優駿たちが頂点を目指して疾走し、東京競馬場が大歓声に包まれている丁度その頃、ウィナーズサークルは松山氏が差し入れた大好きな人参を食みながら、栄光の日を忘れたかのように穏やかな日々を噛みしめている…そんな気がした。

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(取材・文・写真:佐々木祥恵)


ウィナーズサークルの見学は事前のお問い合わせが必要になります。詳しくは「競走馬のふるさと案内所」まで。
http://uma-furusato.com/i_search/detail_horse/_id_0000191120

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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