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GI馬の突然の訃報 エリモシック、愛され続けた21年の生涯

  • 2014年08月12日(火) 18時00分
第二のストーリー


※次ページでエリモシックのフォトギャラリーを無料公開中

女傑・エアグルーヴと同期


 名馬たちの訃報が続く中、一頭の名牝が天国へと旅立っていった。エリザベス女王杯に優勝したエリモシックだ。

 オークスや天皇賞・秋を制覇したエアグルーヴと同期で、彼女との対決では1996年の秋華賞(2着)以外は後塵を拝すなど、重賞勝利にはなかなか手が届かなかったが、1997年のエリザベス女王杯では1つ上の先輩・ダンスパートナー以下を退けて、念願のビッグタイトルを手にした。

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▲ダンスパートナーを破ったエリザベス女王杯


 現役を退いた後は、生まれ故郷であるえりも農場(のちにエクセルマネジメントに改称)に戻り、繁殖牝馬として第二の馬生を歩み出した。

 2012年になってエクセルマネジメント生産撤退の噂が囁かれる中、同年10月24日に行われたジェイエス主催の繁殖馬セールで売却され、新しい環境で繁殖牝馬として再スタートを切る。セール時にワークフォースの子を受胎しており、翌年の4月9日に黒鹿毛の牝馬を無事に出産したものの、その後に体調を崩し、癲癇の発作を起こしたために、繁殖生活の続行を断念。当時繋養されていた牧場にやってきて1年足らずで繁殖登録が抹消された。

 その後、引退馬を繋養しているローリング・エッグス・クラブ経由でNPO法人引退馬協会に相談が持ちかけられ、同協会9頭目のフォスターホースとして、エリモシックの受け入れが決まり、かつてハギノカムイオーや生産馬であるフジノマッケンオーが功労馬として暮らしていた新ひだか町三石本桐にある本桐牧場で余生を過ごす運びとなった。

 たとえ活躍馬であっても繁殖を引退した後は、ひっそりと処分されてしまうケースが多いと聞く。人のために生まれ、走り、繁殖として生き、そして処分という道をたどる。「経済動物だから仕方ない」そのような言葉もよく耳にするが、果たしてそれで片づけてしまって良いのだろうか。1頭1頭に個性があり、感情豊かな馬たちの素顔を目にするたびに、その思いが強くなる。エリモシックは幸運にも彼女を生かそうとする人の意志や行動の結果、繁殖を引退した後の第三の馬生の道が開けた。

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会いに来たファンは1か月半で100名


 本桐牧場にエリモシックが到着したのは、昨年の9月4日。「大人しくて気品があって、他の馬がちょっかいを出しても泰然としていて、いいとこのお嬢様という感じでした」これが本桐牧場・長井恵代表のエリモシックの印象だ。

 牧場スタッフのケアもあって、エリモシックの体調も徐々に良くなっていく。「次々にファンの方や引退馬協会の会員さんが会いに訪れてくださいました。ウチに来てから、1か月半で100名にもなりました。あっという間でしたよ」。長井代表は、エリモシックのファンの多さに驚いたという。

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▲ファンの方から贈られたトナカイの帽子、かなりのお気に入りだったそう


 さらには、現役時代に管理していた沖芳夫調教師が、エリモシックに会うために本桐牧場に幾度となく足を運んでいた。

「毎月会いに来てくださいました。シックには人参、ウチの若いスタッフたちにはスイーツをお土産に持ってきてくださって、馬にも人にも本当に優しい先生です(笑)。それにしても毎月訪ねて下さるとは、シックはどれだけ先生に可愛がられていたのかと思いますよね」(長井代表)

 沖師に初めてGI勝利をもたらしてくれた馬とはいえ、多忙な調教師業務の中、月に1度必ず会いに訪れるというのは、そうできることではない。沖師の馬への愛情の深さもあるのだろうが、ファンが1か月半の間に100人以上も訪ねてきたというエピソードからもわかるように、エリモシックには人を魅了してやまない特別な力があったのではないかとも思う。

「必要以上に人に甘えたりはしませんでした。人参をあげても、いつまでも頂戴とおねだりはせずに、ある程度食べると去っていったりね。毎朝のお散歩が日課でしたけど、イヤとなったら絶対に動かないという頑固な面もありましたね。前の牧場では無理に歩かせようとすると、転んだこともあったという話を聞きましたので、歩くまで待ってあげていました。イヤなことはハッキリと意志表示をしていましたよ。そのあたりも深窓の令嬢のような感じがしました」(長井代表)

 マイペースなお嬢様、エリモシックの大の苦手がアブだった。「以前いたエクセルマネジメントさん(旧えりも農場)では夜間放牧をしていたために、アブはあまり経験したことがないという話でした。なので余計なのかもしれないですけど、アブだけではなくハエに対しても結構神経質でしたね。アブを払うのに走り回ったり、牧柵に体をすりつけたりもしていて、それでも払えないとまるで人間が泣くような『エーン、エーン』という声を出していました。ある意味、潔癖症なのかなとも思いましたね」(長井代表)

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両肺からの出血による呼吸不全


 アブは苦手だったが、本桐牧場に来てからは1度も癲癇の発作を起こすことなく、時には一緒に放牧されている繁殖牝馬とヒソヒソ話をしたり、訪れるファンのお相手をしたり、のんびりと放牧地で草を食むなど、穏やかに時は流れていった。

 エリモシックの身に暗雲が立ち込めたのは、今年7月半ばのことだった。7月17日の夕方の放牧が開始された直後に、エリモシックの呼吸が荒くなっていた。獣医師の診察で肺からの出血が確認され、治療ののちに呼吸は落ち着いたが、放牧はお休みとなり厩舎での療養の日々が始まった。高齢により、肺に負担がかかっての出血というのが診断結果だった。

 8月初旬には食欲も戻り、容体も安定したかに思われたが、8月6日午後、異変は起きる。

 「その日はファンの方が親子でいらしていて、私も一緒に人参を食べさせたのですが、その10分後くらいに急に鳴き出して倒れてしまったのです」(長井代表)

 エリモシックは、それから間もなく息を引き取った。21歳の夏、突然の別れだった。その後、新ひだか町三石の家畜診療所に搬送されて解剖した結果、両肺からの出血による呼吸不全が死因と特定された。

「診療所に駆け付けてくださった引退馬協会北海道事務所の加藤さんから、かつてえりも農場にいた獣医師が診療所にいて、その獣医さんがエリモシックのたてがみを少し、形見にもらっていったと聞きました」(長井代表)

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 エリモシックをよく知る獣医師が診療所にいる偶然。シックが呼びよせたのか…馬と人を結ぶ縁の不思議を感じずにはいられない。「本当にたくさんの方がエリモシックに会いに来てくださいました。この馬と出会って、馬の持つ魅力の大きさ、人を惹きつける力を再発見したような気が致します」(長井代表)

 生産牧場、現役時代の調教師、そして晩年を過ごした牧場関係者や余生を支えた引退馬協会、多くのファンなど、エリモシックに関わったすべての方々が、忘れられない想い出と、それぞれに大きな贈り物を彼女から受け取ったのではないかと、僭越ながら思った。私自身も、1頭の馬が人に与える影響と命の重みを、エリモシックという素晴らしい馬から教えられたのだった。(次ページは、エリモシック・フォトギャラリーです)

(取材・文:佐々木祥恵、写真提供:本桐牧場)


※NPO法人引退馬協会
http://rha.or.jp/
(本桐牧場さんによる「エリモシックだより」があります)

※本桐牧場
http://www.honkiri.co.jp/

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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