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文豪が憧れた名騎手

  • 2014年08月23日(土) 12時00分


◆謎に包まれた名手・神崎利木蔵

 競馬ファンでもあり、代表的な文人馬主でもあった吉川英治の自叙伝『忘れ残りの記』に面白いことが書かれている。

 人間は、自分の命の出発点からして何もわかっていないことのたとえだ。

<発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、丹那トンネルを過ぎた頃に薄目をあき、静岡辺でとつぜん“乗っていること”に気づく、そして名古屋の五分間停車ぐらいからガラス越しの社会へきょろきょろし初め「この列車はどこへ行くのか」と慌て出す。もしそういうお客さんが一人居たとしたら、辺りの乗客は吹き出すに極っている。無知を憐れむにちがいない。ところが人生列車は、全部の乗客がそれなのだ。人間が生れ、また、自分も生れているということは、じつに滑稽なしくみである>(旧表記などママ)

 吉川は東海道新幹線が開通する2年前の1962年に亡くなっている。であるから、これは東海道本線の話だ。当時は東京−大阪間の移動に最短でも7時間ほどかかっていた。

 わかりやすく、現代の新幹線に置き換えてみたい。終着駅が新大阪だとすると、名古屋で「行先はどこだ」と慌て出すのは人生の3分の2を過ぎてから、ということになる。

 何か大きなことをやってのける人はそのぐらいの意識でいるのかもしれないが、とりあえず私は、東海道新幹線からそのまま山陽新幹線に乗り入れる「東京発博多行き」に乗った、ということにしたい。

 これで、発車駅から終点まで千キロ強(所要時間は5時間強)になり、大阪まででも半分弱になった。

 私は今、どのあたりにいるのだろうか。

 乗車時間でいうと、半分を過ぎてさらに進んだところだ。全旅程5時間強のうち3時間20分ほど乗った岡山あたりか。終点まで1時間40分ほど。まあまあ長いこと乗ってきたが、まだいろいろなことをする時間がある。周囲を見回すと、酔ってイビキをかいている者もいれば、大声で携帯電話で話している者も、静かに本を読んでいる者もいる。

 いや、ひょっとしたら私は、京都あたりで途中下車して、そのあたりをウロついているうちにタイムオーバーになってしまうクチかもしれない――などと考えていると虚しくなるので、吉川英治に話を戻したい。

 根岸競馬場の近くで生まれ育った吉川は、子供の頃、騎手になりたいと思っていたこともあったという。

 近くに住んでいたスタージョッキー・神崎利木蔵について、『忘れ残りの記』にこう書いている。

<その頃の名騎手カンザキの名は、ぼくら幼童の耳にも、英雄の如きひびきと憧憬をもたせたものである>

 そして、憧れの存在だった、その神崎騎手の屋敷をこう描写している。

<袖垣にバラをからませた鉄柵の門から内を覗くと、中央に広い草花のガーデンが見え、両側が長い厩舎となっていて、奥に宏壮な洋館があった。東京の羽左衛門という千両役者であるとか、新橋の洗い髪のお妻とか、ぽん太とかいう名妓であるとか、やれ大臣だとか何だとかいう種類の人々の俥や馬車がよくそこの門に着いていた>

 明治30年代の話である。

 馬券が黙許され、各地に競馬会ができて日本に初めて競馬ブームが到来したのは明治40年から41年にかけて(日本人による馬券発売を伴う初開催は明治39年11月、東京競馬会によるもの)だった。

 それより前は、居留外国人によって運営されていた根岸競馬場で治外法権的に馬券が売られていた。そこでトップクラスの成績を挙げれば、神崎のような華やかな暮らしができたのか。

 あるいは、神崎は、調教師や馬主を兼ねていたのかもしれない。

 明治時代には、初代ダービージョッキー・函館孫作の師匠である函館大次が、騎手としてレースに出ながら所有馬を走らせていた、などの例がある。厩舎も、今のように、調教師が馬主から預託料を受けとって経営する形態ばかりでなく、調教師や馬主が土地や建物を所有するケースもあった。現在も、ヨーロッパの外厩がそうである。

 同様に、吉川が憧憬の目で見ていた神崎邸も、住まいを兼ねた外厩だったのかもしれない。神崎は、そこで馬を管理し、競馬場に連れて行き、調教したりレースに騎乗していたのではないか。

 そうだとすると、<広い草花のガーデン>があり、<両側が長い厩舎>になっている構造といい、役者や芸妓、さらには大臣まで訪ねてくる「社交サロン」のようになっていたのも自然なことに思える。

『日本の競馬』(若野章)には、馬券禁止時代の明治42年、活路を求めてロシアのウラジオストックに遠征した人馬のなかに「神崎利喜蔵」の名がある。ひと文字違っているが、おそらく神崎のことだろう。

 また、優勝内国産馬連合競走の大正11(1922)年秋季東京と、昭和12(1937)年春季京都の優勝馬主のところにも神崎の名がある。

 彼は案外、鞭一本で財を築いたのではなく、資産家の御曹司などで、馬乗りの才能に恵まれていた人物だったのかもしれない。

 いずれにしても、神崎利木蔵が、文豪・吉川英治が憧れた名騎手であったことに違いはない。

 機会があれば、またいろいろ調べてみたいと思う。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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