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【祐一History vol.13】『エイシンプレストンの引退、その夜の出来事』

  • 2014年08月26日(火) 18時00分
祐言実行

▲エイシンプレストン、2001年香港マイル優勝時(撮影:高橋正和)


「俺じゃなかったらもっと勝ってた…」


 三度目の挑戦となった香港Cは、明らかに自分のミスで負けたレースだった。道中は、完全に香港の馬に囲まれてしまって、まったく動けない状態だった。それまで、香港マイル、クイーンエリザベス2世Cと2勝していたことで、当然人気だったから、文字通り、“プレストン包囲網”が敷かれていたのだ。直線は、その馬群から逃れようとガンッ! と出していったのだけれど、結果的にデットーリを邪魔してしまって(GRANDERA7着)、騎乗停止になった。でも、北橋先生はレース後、「まぁ負けはしたけど、デットーリを邪魔したんやから大したもんや」とか言って、笑っていた覚えがある。海外で騎乗停止になった弟子を前に、改めて肝の据わった先生だと思った。

 ちなみに、北橋先生は海外が大嫌い。香港のホテルでも、窓からずっと船を見ていた。そんな先生を見て、ああ、ホンマに嫌なんやなって(笑)。でも、プレストンのため、弟子のため。自分の好き嫌いは置いといて、我慢してくれてたんだろうなぁと今は思う。

 国内のGIは、結局、朝日杯以降、勝つことができなかった。01年、02年とマイルCSで2着だったのも、正直、自分のミスが敗因だと思う。それでも先生は、ずっと乗せ続けてくれた。北橋厩舎で重賞を勝った馬はほかにもいるけれど、あれだけ長い時間をともに戦い、最後までその背中を自分しか知らなかった馬は、プレストンだけなんじゃないかと思う。

 03年12月14日の香港C。あらかじめ決まっていた引退レースだった。結果は、1.3秒差の7着。その年の秋のシーズンは、毎日王冠(3着)、天皇賞・秋(4着)とそこそこいい競馬をしてくれたけど、あのときのプレストンは、本当に走れなかった。“馬の衰えって一気にくるんだな…”と、そのときに初めて知った。

 最後の香港の帰り、タクシーのなかで和くんとふたりで泣いた。そのレースに負けたからではなく、自分のミスで負けたマイルCSや香港Cなど、最後にいろいろと甦ってきて…。間違いなく、自分が取りこぼしたレースが多かった。スタッフが、

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祐言実行とは
2013年にJRA賞最多勝利騎手に輝き、日本競馬界を牽引する福永祐一。まだまだ戦の途中ではあるが、有言実行を体現してきた彼には語り継ぐべきことがある。ジョッキー目線のレース回顧『ユーイチの眼』や『今月の喜怒哀楽』『ユーザー質問』など、盛りだくさんの内容をお届け。

1976年12月9日、滋賀県生まれ。1996年に北橋修二厩舎からデビュー。初日に2連勝を飾り、JRA賞最多勝利新人騎手に輝く。1999年、プリモディーネの桜花賞でGI初勝利。2005年、シーザリオで日米オークス優勝。2013年、JRA賞最多勝利騎手、最多賞金獲得騎手、初代MVJを獲得。2014年のドバイDFをジャスタウェイで優勝。

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