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川島正行という人の夢

  • 2014年09月12日(金) 18時00分


 本サイトのニュースでも既報のとおり、船橋の川島正行調教師が9月7日に亡くなられた。競馬で残した偉大な記録の数々は多くのところで語られているので、ここでは触れない。最後の重賞勝ちとなったのは7月21日、ナイキマドリードでの習志野きらっとスプリント。人づてに聞いたところ、すでにこのころには入院されていて、競馬場には病院から来ていたらしい。地元の船橋で、そして鞍上は息子の正太郎騎手でということでは、関係者には思うところがあったのではないだろうか。

 川島調教師で思い浮かぶ言葉は、天真爛漫、自由奔放、猪突猛進、真実一路、などなど。どれも一面では言い当てているような気はするが、どれもまったくそのとおりというわけではないような気もする。一番しっくりするのは、真実一路だろうか。とにかく曲がったことが大嫌い。正しいと思うことは最後までやり遂げる。前例にないことでも、いいと思えば曲げることはしなかったから、抵抗勢力も少なくなかった。

 いまでは南関東でも多くの厩舎でそうするようになったが、重賞などのパドックで馬を引く厩務員にスーツを着用させたのも、おそらく川島調教師が最初だったはず。南関東では、パドックで馬を引く厩務員は、指定の作業着のような上着を着用するという決まりがあった(もしかしたら今でもあるのかもしれない)。今となっては信じられないことだが、川崎競馬場の交流重賞で厩務員にスーツを着させたところ、主催者から決まりどおりの上着しか認めていないと言われたことがあったそうだ。中央馬の厩務員はスーツを着ているのに、だ。怒った川島調教師は、厩務員のスーツを脱がせ、ワイシャツで馬を引かせた。たしか川崎記念。真冬に厩務員のワイシャツ1枚があまりにも不自然だったので、後日、川島調教師に聞いてみたところ、そうした経緯を話してくれた。

 とにかく、「ファンのために」ということを常に考えてもいた。女性用に船橋競馬場のトイレを綺麗に改装したり、馬主などのVIPが競馬場で居心地がいいように、アルコールと食事ができる店舗もつくった。競馬場が華やかになるようにベストドレッサーコンテストを始めたのも川島調教師の号令によるものだったはず。非開催日にファンを厩舎に招待して食事を振る舞うなど、直接のコミュニケーションにも積極的だった。

 重賞レースに管理馬を出走させているときは、かならずビシッとした出で立ちで、騎手控室の前に姿があったのを覚えているファンも多いことだろう。もちろん馬の様子を見るということもあっただろうが、「ファンも関係者の顔を見たいだろうから、必ずファンの前に立つんだ」ということは常々言っておられた。それを息子である川島正一調教師にも引き継いでいる。

 調教師としての後半は、社会貢献にも熱心だった。偶然、ガーナ人と知り合ったことで、アフリカの子どもたちはノートも鉛筆もないところで勉強しているという話を聞き、「フリオーソが東京大賞典を勝ったら…」という約束で、コンテナ1台分の文具用品やらサッカーボールやらTシャツやらをガーナ共和国に寄付した。千葉県や船橋市などにもかなりの金額を寄付していたはずだ。とある取材で、同行した編集者が謝礼に現金の入った封筒を渡すと、中を見ることもなく、「おう、コレ持ってって」と、厩舎の事務員の女性に渡していた。そうした謝礼金などは、すべて福祉関係に寄付しているのだという。カッコイイと思った。

 騎手になったころは、息子(正一さん)を騎手にして、当時は珍しかった親子現役ジョッキーになって、自分は早くに引退して、居酒屋をやりながら馬主になることが夢だったという話を聞かせていただいたことがある。正一さんは地方競馬教養センターの騎手過程を卒業の直前でやめてしまったため、親子ジョッキーは実現しなかったが、親子調教師にはなった。さらに息子の正太郎くんはちゃんと騎手になり、今年で7年目。いくつもの重賞を勝ち、そして結果的に、父の最後の重賞勝ちの鞍上にもあった。

 そこまでの夢はかなったが、馬主にという夢の実現にまでは至らなかった。おそらく調教師としてやり残したことが、まだまだたくさんあったのだろう。

 それでも、馬主として競馬場に来て、正一調教師と、正太郎騎手と、一緒に口取りにおさまる川島正行さんの姿は見てみたかったなあ。

 ご冥福をお祈りします。

1964年生まれ。グリーンチャンネル『地・中・海ケイバモード』解説。NAR公式サイト『ウェブハロン』、『優駿』、『週刊競馬ブック』等で記事を執筆。ドバイ、ブリーダーズC、シンガポール、香港などの国際レースにも毎年足を運ぶ。

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