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佐藤哲三騎手引退に思う

  • 2014年09月20日(土) 12時00分


◆佐藤哲三騎手のこれからの道

 先日、佐藤哲三騎手が記者会見を行い、10月12日付で騎手を引退することを発表した。12年11月の落馬事故で左上腕骨折など全身に大怪我を負い、6度も手術を受けながらリハビリをつづけてきたが、ついに復帰は叶わなかった。

 復帰は難しいという医師の見立てに加え、この夏、大山ヒルズに出向いてキズナと対面したとき、

 ――かわいいな。

 と思ってしまい、潮時だと感じたという。

 勝負師には不要な、いや、あってはならないと捨てたはずの感情が湧いてきたことによって鞭を置く決意を固めたというところから、自分に厳しい男であることが伝わってくる。

 1989年にデビューしてから26年目。田中勝春騎手、角田晃一調教師らと競馬学校騎手課程の同期(第5期生)だ。

 JRA通算938勝、うちGIは6勝。なかでも、タップダンスシチーで2003年のジャパンカップを逃げ切った手綱さばきは見事だった。

 最内枠からポンと飛び出し、躊躇なくハナへ。1、2コーナーを回りながらリードを4、5馬身にひろげ、向正面で後ろを引きつけるのか思いきや、さらに突き放し、2番手を10馬身ほど離すひとり旅をつづけた。

 そのまま3コーナーに入るも、勝負どころから後続が一気に差を詰めてきて、直線入口では4、5馬身差に迫られていた。さすがに苦しくなったかに見えたが、そうではなく、彼は後ろを引きつけていたのだ。佐藤哲三・タップダンスシチーはそこからもうひと伸びし、2着に9馬身もの差をつけ、第23回ジャパンカップを制覇した。重馬場で、勝ちタイムが2分28秒7もかかった特殊な舞台設定だったとはいえ、2着ザッツザプレンティ、3着シンボリクリスエス、4着ネオユニヴァースといった超豪華メンバーを置き去りにした別次元の走りは、まさに驚愕モノだった。

 11年の宝塚記念をアーネストリーで逃げ切ったあとのインタビューも印象的だった。

 結局実現はならなかったが、彼は、凱旋門賞に参戦したい、という思いを口にした。

「向こうには、乗ると5馬身違う騎手がいるらしいですから、負けたくない」

 といったコメントに、並外れた負けん気の強さが表れていた。

 これぐらいの気持ちでやっていないとGIを勝つことはできないのだろう。

 佐藤騎手は、キズナがデビューする前、大山ヒルズにいたときに跨り、

 ――こういう馬がダービーを獲るんだろうな。

 と感じていたという。

 しかし、新馬戦と黄菊賞を快勝し、さあこれからというときに落馬事故に遭ってしまった。

 騎手というのは、自身のお手馬だった馬がほかの騎手の手綱で活躍しても嬉しく感じるものだという。公私ともにつながりの深い前田幸治オーナーの生産馬がダービーを勝ったことを純粋に喜んだだろうが、それでもやはり複雑だったはずだ。

 勝負師として、また、プロの騎手として、そのあたりの感情には上手く整理をつけていたのだろうが、つくづく、騎手というのは厳しい職業だと思う。

 彼が引退会見を行った9月17日は44歳の誕生日だった。全場重賞制覇や通算1000勝など、あと少しのところまで来ていながら、やり残したこともある、と語った。決断するまで、相当悩み、迷ったことだろう。

 長らく第一線で活躍してきた、個性豊かなトップジョッキーがステッキを置くことになった。

 どんな第二の人生を歩むのかは、まだ決め切っていないようだ。

 今はまだ先のことを考える気になれないかもしれないが――。

 これほどの実績を積み上げ、数々の名馬の感触を手のひらに、そして、幾多の勝負の醍醐味を全身に蓄えてきた彼には、やり残したことより、これからやれることのほうがずっと多いはずだ。

 新たな道を力強く進む彼の姿を見られる日を、待ちたい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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