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■第7回「別人」

  • 2015年03月30日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革を決意し、ベテラン厩務員のセンさん、元ヤンキーのゆり子、そして、ぐうたら男の宇野と初めて膝を突き合わせて話をした。宇野と離婚したばかりの美香も厩舎で働くことになった。



 美香の動きは早かった。伊次郎とカフェバー「ほころび」で話した2日後には荷物を厩舎の2階の宇野の部屋に運び込み、文字どおり、押しかけ女房になった。

 その翌朝のことだった。いや、午前2時ごろだから、翌未明と言うべきか。

 伊次郎が大仲に顔を出すと、宇野と美香が先に来ていた。部屋中にコーヒーの香ばしい匂いが満ちている。

「おはようございます、先生」と美香が笑顔を見せた。
「いい匂いだな」
「はい、ほころびブレンドなんです」
「え?」
「ほころびのマスターに、豆の煎り方と配合を教えてもらったんです。どうぞ」と見たことのない新しいカップにコーヒーを淹れてくれた。

 まろやかな口当たりで飲みやすく、深いコクに思わずため息が出そうになる。ほころびブレンドの完璧なコピーだ。

「水はどうした」
「それもマスターに訊いて、大山の水を使っています」

 フィルターのアクもとってあるし、おそらく、カップの厚さも「本物」と同じにしたのだろう。

「美香さんには、当分の間、馬にさわる仕事ではなく、事務を頼む。コーヒー豆や水の領収書は、そこのボックスに入れておいてくれ」

「はい!」と答えた彼女は、宇野と結婚する前、都内の一部上場企業で総合職として働いていたという。いわゆる「お茶くみ」にするのはもったいない。

「きょうからうちの従業員全員にこれを持ってもらうんだが……」と伊次郎は、6台のスマホをテーブルに置き、つづけた。

「その日の調教メニューと飼料などを各自がクラウドにアップすれば、みんなでデータを共有できるようになっている。脚元のケアなどに迷ったときは写真を撮ってアップしておけばいい。そのひな型を、美香さん、つくっておいてくれ」と美香にタブレットをわたした。

 頷いた美香は、少しの間タブレットとスマホを操作し、「ついでに、タブレットやスマホで閲覧しやすい形で、うちの厩舎の公式サイトもつくっておきましょうか」と顔を上げた。

「おう、頼む。SOHOでいいぞ」
「はい、ではお言葉に甘えて、部屋で作業させていただきます」と2階に上がって行った。

 その後ろ姿をポカンと見つめていた宇野は、自分の妻にそんな職能があることなど知らずにいたのだろう。

「なあ、先生」と宇野が立ち上がり、口をひらいた。
「なんだ」と伊次郎は身構えた。
「ありがとうございます」と、宇野が気をつけをして頭を下げ、言葉をつづけた。
「あいつに戻るよう言ってくれたそうで、感謝してます」
「お、おう」と答えた伊次郎は、実は少し動揺していた。というのは、この男との数年に及ぶ付き合いで、礼を言われたのは、たぶんこれが初めてだからだ。

「先生には、バレちまってたんですね」というのは、自分のDV癖のことだろう。
「ちゃんと自分をコントロールできるか」
「今は、しようとしなくても、先生のおかげで、できてます」
「おれの?」
「はい。美香が、リビングに先生の写真を引き伸ばして飾ったんです」
「な、なにィ……?」
「魔よけだそうです。チャン・グンソクのポスターの横に徳田伊次郎がいるんですよ。怖くて、手なんて上げらんねえや」と笑った。
「ま、まあ、それならよかった」

「ところで、先生。なんでスマホが6台もあるんだよ」
「人数ぶんだ」
「先生、おれ、美香、センさん、ゆり子の5人だから、5台でいいじゃないか」
「もう1台は藤村のぶんだ」

 藤村というのは、徳田厩舎の攻め馬とレースによく乗っている三流騎手だ。

「そうか。それはいいけど、センさん、戻ってくるかな……」

 宇野はそうつぶやき、担当馬の馬装を始めた。

 その日の2番乗りが終わり、全員が大仲で休憩しているときのことだった。

 髪をオールバックになでつけ、グレーのスーツを着た壮年の紳士が大仲の入口に顔を見せた。銀縁のメガネが、朝の陽をはねてキラリと輝いた。

「あのう、どちら様で……」とゆり子が言うと、紳士がニッと笑った。
「我ァだ、仙石直人だべさ」

 なんと、5日ぶりに姿を見せた、ベテラン厩務員のセンさんだった。

「センさん!」と宇野が目を丸くし、言った。
「髪を真っ黒に染めてっから、ぜんぜんわかんなかったよ。それにそのメガネ。気のせいか、顔つきもキリッとしたんじゃねえか」

 確かに、背筋まで伸びている。5日前までは70歳過ぎのジイさんにしか見えなかったのに、今は、56歳の実年齢より若く見えるほど、変わった。センさんは少し恥ずかしそうに笑い、伊次郎に言った。

「先生に紹介してもらった病院で、検査と治療さ受けてきました。いんやあ、びっくらこいたわァ」
「なんて言われた」
「これが検査結果だべさ」と、センさんは伊次郎に封筒をわたした。

 中身を見た伊次郎は小さく頷いた。

「やっぱり、そうだったのか」

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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