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■第9回「開眼」

  • 2015年04月13日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、みな無気力。伊次郎は、厩舎改革に乗り出した。手始めに病院に行かせたベテラン厩務員のセンさんは馬アレルギーだった。症状が改善されたセンさんの仕事ぶりが変わり、厩舎が明るくなった。そして、センさんがかつて担当したシェリーラブが実戦に臨むことになった。



 主戦騎手の藤村を背にしたシェリーラブは、追い切りで抜群の動きを見せた。

 伊次郎の管理馬8頭のうち、今、在厩しているのは6頭だ。そのほとんどが、おそらく人間と一緒にいる時間が短かったせいだと思われるのだが、うるさかった。ところが、このところ、スタッフの動きが活発になり、厩舎にいる時間が長くなるにつれて、みな、おとなしくなってきている。調教ではよく動き、普段は扱いやすいという、とりあえず、形のうえでは理想的な競走馬になりつつある。

「ぼくが乗ったなかで、今が一番状態がいいです」

 シェリーラブから下馬した藤村が、鐙についた泥を指先で落としながら言った。そして、ハンカチで手綱を拭き、馬体の左右への垂れ方を均等にして微笑んだ。彼は、洗車するとき、ホイールやフロントグリルの拭きとりに綿棒を使うほど几帳面だ。初対面の人間にも血液型がA型だと当てられるのだが、本人だけは「どうしてわかるんですか!?」と毎度驚いている。ということは、この病的な几帳面さに自覚がないのだろう。

 彼は、几帳面さとどちらが重度かと思うほど、尋常ではない慎重さでも、よく周りを困惑させている。歩いているときも、クルマを運転するときも、そして馬に乗っているときも、普通の人間の数倍のしつこさで左右を確認する。そうして確認しているうちに、例えば運転中、遠くに見えている店の看板の図柄が変わっていることに気づき、そこの店主の顔や嫁さんの太り具合などを思い出したりし、気がついたら後ろからクラクションを鳴らされているのだという。

 こんな性格の男が、なぜ騎手になろうとしたのか、不思議で仕方がない。

 馬群のなかに入ったら、ほぼ確実にそのままゴールする。前に隙間ができても、周囲を確認しているうちに、また閉じたり、ほかの馬に入られてしまうのだ。

 だが、馬乗りのセンスだけは抜群だ。短期免許で乗りにきた外国人騎手が、藤村のフォームとステッキワークを見て「彼がリーディングだろう?」と言い、デビュー以来年間10勝を突破したことがないと聞くと「ジーザス」と首を横に振っていたほど、腕と成績にギャップがある。

 馬乗りは上手いのに、競走は下手。ならば競走しなければいい――例えば、ついてくる馬がバテるほどのハイペースでハナを切り、そのまま逃げ切るような競馬をすればいいのだが、伊次郎の厩舎にそんな芸当ができる馬はいない。

 伊次郎は、徳田厩舎を「勝てる厩舎」にしていくにあたり、父がかわいがっていた藤村も「勝てる騎手」にしたい、いや、しなければならない、と思っていた。

 藤村は、ゴール前で叩き合った騎手に、レース後「鞭を変えたんですね」と言い当てて驚かせたことがある。しなり方でわかったのだという。その観察力と動体視力を違う方向に使い、あの慎重すぎる性格をなんとかすれば、もともと馬乗りの腕はいいのだから、一流になれる。いや、超一流になれるかもしれない――ずっと秘かにそう思っていたのだが、口に出したことはなかった。

 シェリーラブのレースの日が来た。

 左回りのマイル戦。伊次郎が厩舎を引き継ぐ前、シェリーラブが勝っているのと同距離、同コースだ。

 この日、藤村は2度3着になっていた。2度とも馬ごみから出られず、脚を余しての負けだった。管理する調教師にしてみれば、勝てるレースを騎手のせいで落としたと思いたくなるのも仕方がない。ふたりの調教師はどちらもひどく不機嫌だった。

 しかし、嫌味のひとつやふたつ言われたはずの藤村は、傍目には、それが堪えているんだかどうかわからない。普段から「謝り癖」がついており、誰に対してもペコペコしているので、逆に、本当に反省しているかどうかわかりにくいのだ。

 反骨心ゼロのような顔をしているくせに、案外、人を食ったヤツなのかもしれない。本当の感情が表に出ないという意味では、彼もポーカーフェイスだと言える。そこも伊次郎に「ひょっとしたら」と思わせる部分だ。まだ藤村はそうした局面を経験していないが、一流同士のせめぎ合いになったとき、外からの力に屈しないものをひとつでも多く持っている者が勝つ。

 そもそも、馬群のなかで引っ張り切りの手応えになったのは、道中馬に負担をかけない藤村の技術があったからこそだと伊次郎は思っていた。

 いずれにしても「あと少し」「何かのきっかけひとつ」なのだ。

「藤村、脚を余してもいいから、もう少し馬任せに走らせてみろ」

 パドックで伊次郎が言うと、藤村は眉をぴくりとさせた。伊次郎がレース前に指示を出したのは、これが初めてだったので、驚いたようだ。

 ――さて、ヤツは「馬任せ」という言葉をどうとらえるか。

 ゲートがあいた。

 大外枠から出た藤村のシェリーラブは、ポンと速いスタートを切った。そして、内の馬たちを先に行かせながらインに切れ込み、中団につけた。

 シェリーラブのすぐ前を走っているのは本命馬のカワゴエキング。鞍上はリーディングの常連、矢島だ。まずタレてこないし、おかしな動きをする心配もない。藤村は最初からこのポジションを狙っていたのだろう。相変わらず、ここまでは抜群に上手い。

 シェリーラブは、前の馬がはね上げる泥をかぶっても嫌がらず、抜群の手応えで進んでいる。

 ――このまま行ってくれるといいのだが……。

 そうはいかないのが競馬である。

 シェリーラブの外に2頭、内にも1頭が進出してきた。囲まれた。

 シェリーラブは、馬群のなか、引っ張り切りの手応えで3、4コーナーを回った。溜めてきたエネルギーが、芦毛の小さな馬体を弾丸のように見せている。

 ――前があきさえすれば、突き抜けるぞ。

 伊次郎は身を乗り出した。

 横で担当厩務員のゆり子が両手を合わせて祈っている。

 カワゴエキングが後ろを突き放しにかかった。その外に、馬1頭ぶんの隙間ができた。早く馬体をねじ込まないと、すぐにとじてしまいそうな不安定なスペースだ。

「藤村ーッ!」という伊次郎の叫びが聴こえたかのように、その隙間を、藤村のシェリーラブが突いた。

 シェエリーラブは弾けるように四肢を伸ばし、外からカワゴエキングに並びかけた。4分の3馬身差が半馬身差になり、クビ差になった。

 馬体をびっしり併せての叩き合いがつづく。

 伊次郎は立ち上がり、両の拳を握りしめた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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