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■第10回「不振」

  • 2015年04月20日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、みな無気力。伊次郎は、厩舎改革に乗り出した。手始めに病院に行かせたベテラン厩務員のセンさんは馬アレルギーだった。症状が改善されたセンさんの仕事ぶりが変わり、厩舎が明るくなった。そして、かつてはセンさん、今はゆり子が担当するシェリーラブが実戦に臨んだ。



 カワゴエキングの矢島は左鞭を使い、シェリーラブに馬体を寄せてくる。牡馬の強みを生かし、牝馬のシェリーラブを威圧しようとしているのだ。

 そうはさせじと藤村も左鞭をふるい、馬体を離そうとする。

 そのとき、アクシデントが起きた。

 藤村の鞭が矢島の右腕に当たったのだ。

 ビシッという音と、矢島の唸り声がスタンドの伊次郎まで聴こえてくるかのようだった。

 ――藤村のヤツ、わざとやりやがったな。

 藤村は「スイマセン、スイマセン」と矢島に頭を下げるようにしながら追っている。

 ゴールまで、あと50メートル、30メートル……歓声が高まるなか、馬体を併せての叩き合いがつづく。あと3完歩、2完歩、1完歩……ダメだ。わずかに頭差、シェリーラブはカワゴエキングに及ばず、2着に惜敗した。

 ゴールの瞬間、スタンド全体が大きくため息をついたような感じだった。

「さあ、馬を迎えに行くぞ」と伊次郎が言っても、ゆり子はうつむいている。

 両手を合わせて握りしめているうちに、爪が手の甲に食い込んだようで血が出ている。ゆり子は泣いていた。

 ――ん? あれは……。

 ゆり子がこうなることをわかっていたかのように、検量室前に戻ってきたシェリーラブを、先回りしたセンさんが迎えに行こうとしている。

 そのセンさんまで目が赤い。

 少し離れたところにいた宇野は、こちらに背を向けて鼻をかんでいる。

 ――まさか、あいつまで泣いていたのか!?

 これまで、徳田厩舎のスタッフが、ほかの人間の担当馬の走りに興味を示すことなどまったくなかった。

「ゆり子、早く馬のところに行ってやれ。こういうときこそ、一緒にいてやらないとダメだぞ」
「はい……」と、ゆり子が立ち上がった。

 そのとき、宇野が振り返った。

「先生、出番だぜ」
「ん?」
「ほら、検量室」と、宇野が指し示した先で、藤村が矢島に胸ぐらをつかまれていた。

 伊次郎はふたりの間に割って入った。

「矢島さん、一度暴力をふるうと、その応酬になってしまいます」と伊次郎。
「どういう意味だ」
「言葉どおりです」

「なんだ、その顔は。脅しているつもりか」
「地顔です」と言うと、矢島は呆れたように笑った。そして、「わかったよ。激しいプレーと危険なプレーは違うってことを、そいつによーく言い聞かせておけ」と、自分のロッカーへと消えていった。

「すいませんでした」と藤村が伊次郎に頭を下げた。

「どうして謝る」
「勝てませんでした」
「脚は余さなかったな」

「はい。あのう……」
「なんだ」
「先生が言った『馬任せ』って、ゲートを出たなりの競馬とか、そういう意味じゃないですよね」
「……」

「カワゴエの外に隙間ができたとき、シェリーにそこを見せてやったんです。そうしたら、あいつ、自分から割って行こうとして」
「シェリーラブにとっては、あそこが出口に見えたんだろう。嫌なところへの入口に見えたら、行かないはずだ」

「クソッ、もうちょっとだったのに」と舌打ちする藤村は、まだ顔も洗っていなければ、髪の毛もグシャグシャなままだ。伊次郎にじっと見られて初めて気がついたように顔を洗いはじめたが、使い終わったタオルを、かごにバシッと投げ入れた。いつもなら、使用前か使用後か見分けがつかないぐらい綺麗にたたんで仕舞うのに、珍しい。

 藤村を含め、「チーム伊次郎」の面々の意識は、明らかに変わりつつあった。

 目に見えるところでも、変化はあった。飼料置き場には横文字の袋が多くなった。伊次郎がアメリカから取り寄せたものだ。敷料も寝藁をやめ、チップを用いるようになった。しかし――。

 その後のレースでも、伊次郎の管理馬は勝てなかった。

 各馬の2走目までは、なんとも思わなかった。が、3走目でも4走目でも結果が出ないと、さすがに伊次郎も焦りだした。

 ――馬のせいにしちゃダメだ。

 自分にも、スタッフにもそう言い聞かせていたが、努力や変化が結果に結びつかない時期が長くなるのは苦しいものだ。厩舎の雰囲気が、悪かったころのそれに戻りかけていた。

 宇野は遅刻が目立つようになり、センさんも白髪を染めるのを忘れ、禁煙していたゆり子がまたスパスパとタバコを吸い出した。

 そんなある日のことだった。

 聞いたことのない男から、取材申し込みの手紙が来た。

 肩書は「競馬史研究家」だという。

 ――なんだ、このインチキ臭い野郎は。

 と思って放っておいたのだが、秘書的な業務をしている宇野の妻の美香が、「取材を受ける」と返事をしてしまった。

 それが、周りではなく、伊次郎自身の意識を変えるきっかけになるとは、このときは思いもよらなかった。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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