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■第20回「逡巡」

  • 2015年06月29日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかった。改革後の1番手としてシェリーラブが出走。軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。



 フゥーーーッと、30秒ほどかけて息を吐いた。白く曇ったタブレットの画面を指先で拭うと、中央の3歳牝馬の成績表が出てきた。2歳の12月に芝1800メートルの新馬戦でデビューし、年明け初戦は芝1600メートルの500万下、そして芝1400メートルの重賞、と3連勝した馬だ。その後、芝1600メートルの桜花賞では掲示板、芝2400メートルのオークスでは真ん中ぐらいの成績に終わっている。

 今、伊次郎がいるのは、行きつけの「カフェバー・ほころび」のテーブル席だ。

 管理馬の鳴き声や壁を蹴る音などが聞こえないところで、引いた視点から馬のことを考えたいときは、いつもこうして「ほころび」のテーブルで資料をひろげている。

 タブレットに表示された3歳牝馬は、伊次郎が、シェリーラブをはじめとする管理馬でやろうとしているように、一戦ごとに距離を縮めながら使われた。

 ――狙いはなんだったのだろう。

 あれこれ考えながら、今度は鼻から息を吹き出した。

 ――いや、狙いなんてどうでもいい。問題は、使われながら馬がどう変わっていったか、だ。

 レースの動画を再生し、またため息をついた。

 この3歳牝馬が1ハロンずつ距離を短くしたのに対し、伊次郎は100メートルずつ縮めていこうとしている。そのぶん、効果なり、変化は、いくぶんゆるやかなはずだ。

 それはいいのだが、しょっぱなにシェリーラブが勝ってしまったので、距離を縮めていく意味に疑問を持つようになった。今動画を見ている3歳牝馬のように3連勝する能力がないことは明らかだ。それにこの馬は4歳で、キャリアもそこそこある。伊次郎は、「距離短縮戦術」をつづけるべきか、迷っているのだ。

 最初は、スタートからゴールまで、少しでも長く走れるところでゆっくり手順を踏みながら、自分に適した逃げ方を覚えさせるためにマイルを選んだ。そこから距離の短いところを使ってスピードに磨きをかけ、またマイルに戻す……ということを繰り返していく過程で勝利を狙うつもりだった。

 しかし、シェリーラブの逃げ切りが予定外の勝利であったばかりか、騎乗した藤村は、もっと短いところのほうがいいと話している。

 ――より短いところがいい馬の場合、どう使っていけばいいのだろう。

 考えすぎて、自分の眉間にしわが寄っているのがわかった。片手でしわを伸ばし、片手で「距離」「スピード」「逃げ」などのキーワードで検索をかけているうちに、見覚えのある男の顔が出てきた。

 競馬史研究家の鹿島田明だ。「近代競馬における牝系とスピードの相関関係」という、わかったようなわからないようなタイトルの論文がPDFになっている。

「この論文の商用での転用を禁じます」と注意書きがある。

 ――誰も転用なんてしねえよ。

 そうひとりごち、読みはじめた。

 牝馬として64年ぶりに日本ダービーを勝ったウオッカの走りの描写から、そのちょうど100年前に小岩井農場がイギリスから輸入した繁殖牝馬、すなわち「小岩井の牝系」の話に移っている。

 ――明治40年か。この時代に生まれてもいないくせに、よくもまあ、見てきたかのように書けるもんだ。

 胸のなかで悪態をつきながら、気がついたら原稿用紙50枚ほどのそれを、途中で水も飲まずに読み切っていた。

 特に伊次郎が興味を抱いたのは、ウオッカのライバルだったダイワスカーレットに関する考察の部分だ。この馬も、芝2000メートルの新馬戦、芝1800メートルのオープン特別、芝1600メートルの重賞……と、デビューからひとハロンずつ距離を短くしながら使われ、次走、芝1600メートルのチューリップ賞ではウオッカの2着に敗れたが、桜花賞では順位を逆転させ、女王の座についた。鹿島田が引き出した管理調教師のコメントは、次のようなものだ。

「卓越したスピードがある馬ほど、最初は長いところを使い、道中リラックスして走ることや、タメをつくること、ジョッキーとコミュニケーションをとりながら走ることなどを教えるべきだと思っています」

 先々に力を出せるレースと距離適性の幅をひろげるためにそうしたというのだ。

 伊次郎は、シェリーラブの適性や、あの馬が潜在的に持っているスピードを読みちがえていたがために、結果オーライで、ダイワスカーレットが理想的な成長曲線を描いて強くなったのと同じ手順をとることになったようだ。シェリーラブとダイワスカーレットとでは、馬齢もキャリアも、何より能力が違いすぎるが、とり返しのつかないことをしてしまったわけではない、ということか。

 ――ウチの馬たちには、スカーレットのようなスピードも勝負根性もない。それでも、何段か低いところで、同じ角度の成長曲線を描いてやることができれば、それでいいのではないか。

 人間はどうしても「適性」の生きるところを探し、能力を引き出そうとする。が、あえてそれが生きないところで苦しませることによってこそ、本当の底力をつけてやれるのかもしれない。

 ――よし、次はトクマルだ。

 トクマルは、シェリーラブ同様、馬のつくり方を変えてから、競走馬らしくピリピリしてきた一頭だ。

 ビルの谷間に満月が浮かんでいる。ガラスに写る自分の顔が、オオカミのカブリモノに見えてきた。勝って、もう一度吠えてみたい、と心から思った。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■鹿島田明(かしまだ あきら)
作家・競馬史研究家。徳田ファミリーに強い思い入れを持っている。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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