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英国伝説の競馬実況アナウンサー、ピーター・オサリヴァン氏が逝去

  • 2015年08月05日(水) 12時00分


彼のような競馬の語り部がいた時代に、競馬ファンでいることが出来た幸運を今、しみじみと噛みしめている

 競馬発祥の地・英国で、”Voice of Racing”と呼ばれた伝説の競馬実況アナウンサー、ピーター・オサリヴァン氏が7月29日、ロンドンの自宅で亡くなった。享年97歳だった。

 英国の競馬に少しでも触れたことのある者で、その声を聞いたことがないという人は、まず居ないはずだ。世界で最もたくさんの人が画面を通じて観戦すると言われているグランドナショナルの実況を、1948年から担当。1997年をもってそれが連続50年に達したのを機に、Sir(=ナイト)の称号を与えられた男が、ピーター・オサリヴァンである。

 1918年3月3日に、アイルランド南東部のケリー郡にあるキラーネイという町の行政長官を務めていた父ジョン・ジョセフ・オサリヴァンと、母ヴェラのひとり息子として生を受けたオサリヴァン。その生地は長く、同じケリー郡のケンメアという町とされてきたが、晩年に著した自著の中で、実際に生まれたのは北アイルランドのダウン州にあるニューキャッスルという小さな町であったことを明かしている。

 英国のサーレイにある全寮制の学校で学んでいた時代、後見人となっていた祖父母が競馬好きで、その影響からオサリヴァンも競馬に興味を持つようになったという。ひとり息子が行政か司法の道に進むことを望み、そのためにもこれからは国際的視野が必要と考えた両親の勧めで、60もの国々から学生が集まることで知られるスイスの国際大学に進んだオサリヴァンだったが、学問を修めた後も競馬への思いを断ち切ることが出来ず、いつかは競馬メディアに職を求めることを念頭に、まずはニュース配信会社のプレスアソシエーション社に就職。BBCラジオに転職したのが、彼が28歳となった1946年で、ここからピーター・オサリヴァンの実況人生がスタートをした。

 前述したように、グランドナショナルを初めてラジオ実況したのが1948年で、1960年からテレビが舞台となった。

 グランドナショナルだけではなく、ダービー、ロイヤルアスコット、凱旋門賞などもそれぞれ30回以上喋っているオサリヴァンは、当然のことながら、競馬の歴史を彩る数々の名勝負の語り部となってきた。

 70年にニジンスキーが達成した3冠、75年のキングジョージを舞台にグランディとバスティノが繰り広げた世紀の名勝負、癌から奇跡の回復を果たした名手ボブ・チャンピオンがアルダニティで制した81年のグランドナショナルなど、「オサリヴァン節」とともに人々の記憶に残っている名場面を挙げれば切りがないが、極め付けはどのレースかと問われると、レッドラムが自身3度目の優勝を果たした77年グランドナショナルと答えるファンが多い。

 ”It's hats off and a tremendous reception. You've never heard one like it at Liverpool. Red Rum wins the National!(=これは脱帽だ。物凄い歓声だ。リヴァプールに今轟いているほどの歓声を、聞いたことがありません。レッドラム、グランドナショナル優勝!)“というフレーズを、今も諳んじているオールドファンがたくさんいるのである。

 後年のオサリヴァンは、馬主としても競馬に参画。ロイヤルアスコットのキングズスタンドSを制したビーフレンドリーなど、重賞勝ち馬も所有したオサリヴァンだったが、彼をして「自分にとって実況が最も難しかったレース」に挙げているのも、彼の所有馬の1頭が勝った一戦だった。舞台となったのは74年のチェルトナムフェスティヴァルで、トライアンフハードルを制したアティヴォの馬主がオサリヴァンだったのだ。

 ”And it's first Attivo, owned by, uh, Peter O'Sullivan…...(=1着はアティヴォ、馬主は、エ〜、ピーター・オサリヴァン)“。言い淀むことなど滅多になかったピーター・オサリヴァンが、ゴールの瞬間に言葉を失くした、極めて珍しいケースとして人々の記憶に残ることになった。

 最後のグランドナショナル実況を目前に控えた頃、BBCで組まれた特集番組の中で、彼が長年使用してきた双眼鏡が、ドイツ海軍のUボート(潜水艦)で使用されていたものの払下げ品であることを公表すると、世界各国の、双眼鏡を使用する様々業界から、「どうやったら手に入るのか」という問い合わせが、ドイツ海軍に寄せられる騒ぎとなっている。

 実況から退いた97年以降のオサリヴァンは、チャリティ活動に力を注ぐかたわら、ライターとして競馬の報道に携わった。89年に刊行したものに、それ以降の25年分を加筆して昨年発行した自伝は、高級紙タイムズの日曜版である「サンデータイムズ」の集計によるベストセラー・リストで、ノンフィクション部門の第一位に輝くほどの人気を博した。

 90歳を越えても壮健だった中、10年に愛妻パットが死亡。子供がおらず、二人三脚の人生を長く歩んできたオサリヴァンにとって、心の大きな痛手となった。

 それでも94歳を迎えた12年に、自ら運転をして凱旋門賞当日のロンシャンに姿を見せ、周囲を驚かせている。だが、13年3月に軽い脳溢血を発症して病院に搬送されたのをきっかけに、体調が悪化していた。

 何を隠そう、筆者もピーター・オサリヴァンの実況の大ファンで、日本で言うところのシャドーロールをSheepskin Noseband(=羊の毛で被われた鼻革)と言うのも、オサリヴァン節の受け売りだ。

 その名調子を改めて聴きながら、彼のような競馬の語り部がいた時代に、競馬ファンでいることが出来た幸運を今、しみじみと噛みしめている。合掌。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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