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北米におけるLiving Legend、ジョン・ネルード氏が逝去

  • 2015年08月19日(水) 12時00分


ピラミッドを底辺から頂点まで昇り詰め、アメリカンドリームを実現したのが彼の半生であった

 北米競馬界の重鎮として業界の発展に尽くしてきたジョン・ネルード氏が、8月13日、心臓病のためニューヨーク州オールドブルックヴィルの自宅で亡くなった。享年102歳だった。

 北米におけるLiving Legend(=生ける伝説)の中でも最高齢者だったのが、ジョン・ネルード氏だ。なにしろ、調教師として手掛けた最初の活躍馬デレゲイトが、最優秀短距離馬のタイトルを獲得したのは、第2次世界大戦が終結した4年後の1949年だったのだ。現役の第一線に立つ多くの調教師たちが、この世に生を受けていなかった頃から、北米競馬サークルの最前線で活躍していた人物がジョン・ネルードであった。

 そして、ピラミッドを底辺から頂点まで昇り詰め、アメリカンドリームを実現したのが彼の半生であった。

 ジョン・ネルードは、日本で言えば元号が明治から大正に変わったばかりの、馬券の発売を伴わない競馬が施行されていた時代で、JRAの前身である日本競馬会も日本ダービーも産声を上げる遥か以前の1913年2月9日に、ネブラスカ州ミナーテアの農場に生まれた。物心つく頃には馬の背に揺られていたという彼は、子供の頃から悍馬の扱いに長け、10代の頃から、農場で使う何百頭という使役馬の馴致を一手に引き受けていたというから、まさしく生来のホースマンであった。競馬の世界に足を踏み入れたのは自然の流れで、調教師の肩書を名乗り、管理馬第1号となった馬で初勝利を上げたのは、彼が22歳の時であった。ただし、さすがにこの年齢で調教師としてひとり立ちするのは難しかったようで、当時のジョン・ネルードの生計を成り立たせていたのは、騎手のエージェント業だった。この頃の彼の顧客には、殿堂入り騎手のテッド・アトキンソンもいたから、エージェントとしても一流の腕前を持っていたようだ。

 第2次世界大戦で海軍に従属した時代を経て、調教師業に本腰を入れることになったネルードは、高級品に特化したデパートの経営で財を成した大馬主ハーバート・ウールフの馬を預かることになり、ウールフ氏の所有馬デレゲイトで最優秀短距離馬のタイトルを獲得したのが、前述したように1949年であった。

 調教師ジョン・ネルードを語る上で、欠かすことの出来ない名馬が2頭いる。

 1頭は、1957年から58年にかけて活躍したギャラントマンだ。ボールドルーラーやラウンドテーブルと同期で、北米における歴代最強と言われる世代にあって、3冠最終戦のベルモントSで2着馬に8馬身差を付け、16年後にセクレタリアトに破られるまで生き続けた2分26秒3/5というトラックレコードで優勝。この他、トラヴァーズS、メトロポリタンH、ハリウッドGC、更に当時は距離2マイルで争われていたジョッキークラブGCなどを制したのがギャラントマンで、この馬を手掛けたことで調教師ジョン・ネルードの名は一気に高まることになった。

 ギャラントマンと言えば、有名な逸話が残っているのがケンタッキーダービーである。ゴール前で先頭に立ち、勝利は目前と思われた刹那、鞍上の名手ビル・シューメーカーがあろうことかゴールポストの位置を間違えて追うのをやめてしまい、スローダウンしたところをアイアンリージに鼻差差し切られるという、北米競馬史に残る「悲劇」の主役となったのである。

 これがトラウマになったかどうかは定かではないが、その後、ケンタッキーダービーは3歳の春に走る競馬としては消耗が激しすぎるというのが調教師ジョン・ネルードの持論となり、これだけの名伯楽でありながら、ジョン・ネルードはケンタッキーダービーを勝つことなく調教師業を終えることになった。

 調教師ジョン・ネルードの名を更に高めた1頭が、1960年代の半ばに出現したドクターフェイガーである。

 通算22戦18勝という抜群の成績を収めたドクターフェイガーだったが、中でも圧巻だったのが4歳時に見せたパフォーマンスだった。134ポンド(約60.78キロ)を背負って出走したワシントンパークHで、その後29年にわたって破られることがなかった1分32秒1/5というダート8Fの世界記録を樹立。139ポンド(約63.05キロ)を背負って出走したヴォスバーグSでも、その後31年間破られなかった1分20秒1/5というアケダクト・ダート7Fのトラックレコードをマーク。更に芝のユナイテッドネイションHも制したこの年、ドクターフェイガーは年度代表馬、最優秀古馬、最優秀短距離馬、最優秀芝牡馬に選出された。年度表彰の4部門制覇というのは、後にも先にもドクターフェイガー1頭だけしか成し得ていない快挙だった。

 ドクターフェイガーとは、ジョン・ネルードにとって命の恩人の名である。彼が52歳だった1965年、馬乗りの達人と言われた彼が騎乗していたポニーから落馬。頭部を強打したネルードは脳内出血を発症し、生死の境を行ったり来たりすることになった。よしんば命が助かったとしても、身体機能の多くを失いかねなかった窮地から、現場復帰を果たすまでの奇跡的な回復を見せたネルードだったが、この時、2度にわたった大手術を執刀してくれたのが、脳神経外科医のチャールズ・フェイガーであった。

 1972年に殿堂入りを果たしたジョン・ネルードは、65歳となった1978年に調教師としてのキャリアに終止符を打っている。所有馬を管理するだけでなく、生産から育成まで、ネルードが深く関与していたタータン・ファームのウィリアム・マクナイト氏が逝去。タータン・ファームは娘婿のジェームズ・ビンジャー氏が引き継ぐことになったのだが、組織を実質的に切り盛りするポストにジョン・ネルードは就いたのである。

 調教師を退いた後、ジョン・ネルードが大きな役割を果たすことになったのが、ブリーダーズCの創設であった。種牡馬の所有者が、種付け料と同額の資金提供を行なうことで莫大な賞金を捻出するという、ジョン・ゲインズの壮大なる着想を、実際に関係者に説いて廻ったのがネルードで、彼の奮迅の活躍がなければ、ブリーダーズCは成立しなかったと言われている。

 アケダクトで行われた第2回ブリーダーズCで、ジョン・ネルードが生産所有し、子息のヤン・ネルードが管理したコジーンが、欧州から遠征してきた強豪を破りBCマイルに優勝。これをネルードは後に、調教師を退いた後で最も嬉しかった瞬間と回顧している。

 100歳を越えても、気候が良ければ所有馬が走る日の競馬場に姿を見せていたジョン・ネルードだったが、多くの人々に惜しまれつつ、遂に黄泉の国に旅立つことになった。合掌。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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