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「走り」になれるか

  • 2015年08月22日(土) 12時00分


◆いつかは自分も……という気持ち

 先日、紙媒体の連載コラムに「競馬ライターの走り」と言うべき井上康文(1897-1973)についての文章を書いた。下の名を「やすふみ」と記した資料もあるが、次男の康男さんによると「こうぶん」で通していたらしい。本名は康治。フジテレビの競馬中継の初代解説者となるなど、競馬サークルでは知らぬ者のない大御所だった。井上はしかし、それ以上に、民衆詩派の詩人として活躍していた。

「競馬エッセイストの走り」と言えば寺山修司(1935-1983)だ。寺山も詩人、劇作家、演出家、作詞家として名を馳せていた。

 また、競馬関連の文章をよく書いていた「スポーツライターの走り」と言える虫明亜呂無(1923-1991)は、評論家、翻訳家、小説家としてさまざまなフィールドの文章を書いていた。

 そして、「競馬小説の走り」と言える作品を残した舟橋聖一(1904-1976)は、NHK大河ドラマの第一作となった『花の生涯』などの小説で一世を風靡した流行作家だった。

 健在の人で言うと、「血統評論家の走り」の山野浩一さん(1939-)もそうだ。山野さんはSF作家として知られ、著作の帯に安部公房が推薦文を寄せたほどの書き手だ。

 競馬関連の文章だけを書いていた人がいないのはなぜだろう。それだけでは食えなかったからか。いや、「走り」とか「先駆者」というのは、そういうものなのかもしれない。誰も足を踏み入れていなかった分野だったから、最初に入ってくる人は、当然、その外側で活躍していた人、ということになる。

「競馬詩人の走り」と言うより、今のところ「最初で最後の競馬詩人」「唯一の競馬詩人」と言うべき志摩直人(1924-2006)も、関西テレビの競馬中継に出るようになったのは、1960年代半ば、つまり40代になってからだ。以降、「詩人・競馬評論家」という肩書で紹介されるようになったが、それまでは、競馬専業ではなかったわけだ。

 私も、まず、さまざまな分野のインタビュー記事やノンフィクションを書くライターになってから、競馬関係の文章をしたためるようになった。が、競馬に関する何かの「走り」ではない。当たり前だが、外から入ってきたというだけで「走り」になれるわけではない。

 近代競馬が日本で始まってから150年以上経った今、先人たちの築いた土台に頼って書いている私が、何かの「走り」になることはきわめて難しい。それでも、古い資料を調べながら、「走り」と呼ばれる人たちの業績に触れることの多い私は、「走り」に憧れ、いつかは自分も……という気持ちを、胸のどこかに持ちつづけている。

 そうした願望をこめて生み出したのが、本サイトで連載中の競馬小説「顔面調教師」に出てくる「競馬史研究家」の鹿島田明だ。字の並びを見ておわかりのように、モデルは私、島田明宏(1964-)である。「馬鹿島田明宏」から、最初と最後の文字をとった。

 おそらく競馬史研究家を名乗る人はいないので、鹿島田が実在すれば、その「走り」ということになる……だろうか。競馬史の研究においては田島芳郎さん(1952-)が私などよりずっと先を進んでいるのだが、田島さんのプロフィールを見ると「著述家。趣味は古代史研究」となっており、競馬史研究の文字はない。だが、自称していないだけで、競馬史研究家の走りは誰がどう見ても田島さんだ。

 別の何かを探すことにしよう。

 さて、PET検査の結果、父の左鼠蹊部の悪性リンパ腫は、1カ所にとどまっているという意味の「ステージI」だった。その放射線治療のため、4週間ほど入院することになった。ほかの部位に転移していなかったのはよかったのだが、腎臓の癌は別物ということなので、そっちはそっちで切除しなければならないらしい。

 ということで、また東京と札幌を行き来することになりそうだ。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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