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オグリキャップの小栗孝一さん

  • 2015年10月09日(金) 18時00分


◆あらためて偉大さを認識

 オグリキャップの笠松時代の馬主として知られる小栗孝一さんが10月8日、85歳で亡くなられたというニュースがあった。

 それにしても25年ほども前に活躍した1頭のサラブレッドの、それも地方時代にだけ馬主だった人が亡くなったということが一般のニュースとして伝えられたということでは、オグリキャップだけでなく、その背景にある物語まで含め、あらためて偉大な存在だったということがわかろうというもの。

 残念ながらすでに廃止されてしまった競馬場も含め、規模のそれほど大きくない地方競馬には、“この馬主さんがいてこそ、この競馬場がある”という人がいて、笠松競馬場における小栗孝一さんも、まさしくそんな存在だった。

 生まれも育ちも岐阜県の小栗さんは、1971(昭和46)年に地方競馬の馬主となり、所有馬のほとんどを地元の笠松競馬場に預託して走らせた。馬主になって数年後に所有したアラブ種の馬に名付けたオグリオーが大活躍したことで、その後の所有馬に「オグリ」の冠号を付けるようになったようだ。

 近年では、ホッカイドウ競馬や大井にも所有馬がいたり、また中央から地方に移籍する際に他の馬主から譲り受ける馬もいたが、それでも所有馬のほとんどは「オグリ」の冠号で笠松からデビューした。

 かつて自分の所有馬としてデビューさせた馬を他人に譲ることはしなかったという小栗さんだが、オグリキャップは、中央移籍後の最初の馬主となる佐橋五十雄氏の熱意によって中央に移籍した。「オグリキャップほどの馬を笠松だけで終わらせるのはもったいない。日本のオグリキャップにしましょう」と口説かれた。当時、小栗さんは中央競馬には馬主登録がなく、しかしオグリキャップの出走するレースのほとんどで競馬場に足を運び、勝った時には口取り写真にも収まっている。

 小栗さんはその後に中央競馬の馬主登録も取得し、オグリキャップの6歳下の妹、オグリローマンでは武豊騎手を背に1994年の桜花賞を制している。オグリキャップが中央に移籍しての活躍がなければ、オグリローマンの桜花賞制覇もなかったものと思われる。

 笠松競馬場は2004年度限りで廃止が決まりかけたということがあったが、関係者の努力によって存続。もしかしてオグリキャップの看板がなければ廃止になっていたかもしれない。存続したとはいえ、その後しばらくは赤字を出さないために賞金や手当が下げられ、競馬場に来るお客さんも寂しいものだった。ぼくが笠松競馬場に取材に行くのは多くても年に数回だが、そんな時期にあっても馬主席で競馬を楽しまれている小栗さんをたびたび見かけることがあった。

 地方競馬全国協会のデータベース等で調べたところ、10月8日現在、小栗さんが地方競馬で所有する現役馬は15頭ほどいるが、そのほとんどが「オグリ」馬名。さらに驚くのは、母や祖母まで「オグリ」という馬が多くいること。所有した馬は最後まで面倒を見るというだけでなく、繁殖となっても、その産駒まで所有した。地方競馬でも賞金や手当がそれなりに高かったバブル期ならともかく、その後長期低迷となって以降は、間違いなく採算はとれていないはず。しかし笠松のような、特に地方都市の地方競馬は、間違いなく小栗さんのような馬主さんによって支えられてきた。

 2010年に25歳でこの世を去ったオグリキャップともども、ご冥福をお祈りいたします。

 なお、オグリキャップと、オグリキャップに関わった人々の物語については、1992年度のJRA馬事文化賞受賞作品、『銀の夢 - オグリキャップに賭けた人々』(渡瀬夏彦著)に詳しい。絶版になっているものの、Amazonで検索すると中古なら手に入れることができる。昭和から平成にかけての競馬ブーム以降に競馬をはじめたファンの方々には、ぜひともお薦めしたい。

1964年生まれ。グリーンチャンネル『地・中・海ケイバモード』解説。NAR公式サイト『ウェブハロン』、『優駿』、『週刊競馬ブック』等で記事を執筆。ドバイ、ブリーダーズC、シンガポール、香港などの国際レースにも毎年足を運ぶ。

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