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前田長吉の新遺品

  • 2015年11月07日(土) 12時00分


 11月2日、月曜日の深夜、札幌で入院中の母の容体が急変したと主治医から連絡があったので、3日の朝一番の便で飛んできた。

 夜中の12時ごろ、主治医が看護士から連絡を受けて駆けつけ、私に連絡してくるぐらいだから、いよいよか、と思った。

 右の腎臓の真ん中が石灰化しており、腎盂腎炎になって39度以上の熱が下がらず、敗血症を引き起こしている、とのことだった。こうした泌尿器の疾患は難しく、すぐ来てくれないと間に合わないかもしれないというので、JBCのある大井ではなく、札幌に向かうことにした。朝一番といっても6時半羽田発で、病院に着いたのは9時20分ごろだった。母は生きていた。酸素マスクをして苦しそうにしてはいたが、しばらくすると薄目をあけ、私のことに気づいたようだ。熱も37度台まで下がっていた。原因と思われる疾患は残ったままなので、まだ急変する恐れはあるらしいが、とりあえず峠は越えたと思われる。

 実は11月2日は私の誕生日だった。母は、その日だけは何とか踏ん張って、翌日逝ってしまうような気がしていた。ちょうど〆切ラッシュが終わり、週末にGIがない。ずっと我慢ばかりしてきた母だから、息子に遠慮して、そのタイミングを選んだのかな、と。

 翌日エコー検査をしたところ、腎盂の肥大がそれほどではないので、泌尿器科のある病院に転院はせず(今いるのは神経内科)、このまま経過をみてもらうことになった。

 主治医とそんな話をした数時間後、向かいの病室の患者さんが亡くなった。同じ病院に入院中の奥さんが最期をみとることができてよかった、と看護士が話していた。

 私も、初めて「危ない」と言われて飛んできた日に死に目に会えない……ということにならなくてよかった。いつか絶対に来る「次」には間に合わなかったとしても、これで悔いは残らないだろう。

 さて、ここからは、前回予告したとおり、最年少ダービージョッキー・前田長吉の、新たに見つかった遺品について書いていきたい。

 まず、こちらの写真。

熱視点

鞭の先端の内側に「前田」と書かれている。


 こちらはもともとあった遺品の鞭だ。先端の革は、叩かれた痛みをやわらげるため二重になっているのだが、その内側に「前田」と記されていることがわかった、と、長吉の兄の孫の前田貞直さんが教えてくれた。おそらく墨で書いたのだろう。なお、もう一本の鞭は、グリップに「前田」と彫られている。

 次は、こちらの写真。

熱視点

徴兵検査終了証の右にあるのがレントゲン写真。どちらにも「67」の番号が。


 左の徴兵検査終了証は一昨年発見されたもの。その右にある、フィルム大のレントゲン写真が、下の袋に入っているのが見つかった。

 記されている「67」という番号が同一なので、クリフジで変則三冠を勝った1943年に受けた徴兵検査で撮ったものだろう。

 つづいては、この写真。

熱視点

革製のタバコ入れのような小物入れ。ベルトにかけて使ったようだ。


 軍で支給されたものなのか、革製のタバコ入れのようなポーチが見つかった。

 そして、次の写真。

熱視点

店名が記された紙につつまれていた「W」の徽章など。


 これらは、「金澤市尾張町 向田(むこだ)商店」の包装紙につつまれていた徽章(きしょう)など。長辺が1センチほどの徽章の「W」は何の頭文字だろうか。軍が敵性言語を使った可能性は低いと思われる。となると、長吉が所属した尾形藤吉厩舎か、そこに馬を預託した馬主がつくったものか。長吉の騎乗馬のオーナーで、「W」の頭文字の人物は――と探してみると、シンボリ牧場の前身である新堀牧場を創設した和田孝一郎などがいる。

 製造元の「向田商店」が今もあれば、この「W」が何の頭文字か、発注者の名前などから、ひょっとしたらわかるかもしれない。

 ということで、ネットで検索したら、金沢市尾張町の「有限会社プリエ」という、宝石や時計などを扱う店が、かつての向田商店と思われたので、この写真を添付したメールを送り、電話をしてみた。先方にとっては、「最年少ダービージョッキーが東京にいた70年ほど前、1940(昭和15)年から44年ごろの御社に対する徽章の注文に関して……」という問い合わせは、思いっきり「わけわからない系」の質問だったはずだ。にもかかわらず、代表の向田好太郎さんは、とても丁寧に対応してくださった。

 これらの徽章は、包装紙などからして、間違いなく向田商店がつくったものだという。当時は向田さんの先々代が店主だった。徽章の型などは軍に接収されてしまったが、それを魚拓のように写した柄帳は残っているはずだからと、数日かけて探してくれた。しかし、残念ながら、見つからなかった。

 楽天市場のサイトによると、向田商店は1818(文政元)年開業となっている。実際はもっと前から商いをしていたようだが、資料が残っているのがその年からなので、創業年にしたという老舗である。創業から少なくとも300年ほど。日本の近代競馬の歴史が150数年だから、ほぼ倍だ。

 長吉の遺品の徽章を製造したころは、全国からそうした注文を受けていたという。

 向田さん、ありがとうございました。

 最後に紹介するのは、遺品ではなく、貞直さんに連れて行ってもらった、八戸市東霊園の写真である。

熱視点

八戸市東霊園の「英魂之碑」。左奥に長吉の名がある。



熱視点

英魂之碑。中央に「前田長吉」の名が見える。


 長吉は1946年2月にシベリアの抑留先で亡くなった。来年は没後70年に当たる。

 没後60年の節目だった2006年の初夏、DNA鑑定で本人確認された遺骨が八戸の生家に戻ってきた。没後70年の2016年は――。

 同じ青森出身の寺山修司をしのぶ動きは、没後10年より20年、20年より30年のほうが大きなうねりになっている。

 同様に、早世の天才騎手・前田長吉の足跡を、またしっかりと胸に刻みなおしたい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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