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【追悼ムービースター(1)】名実況とともに記憶に刻まれた秋の天皇賞(読者リクエスト)

  • 2016年10月25日(火) 18時01分
第二のストーリー

▲去年の秋に撮影された在りし日のムービースター(撮影:菊池真希さん)


トウカイテイオーが沈み、代わって追い込んできた2頭の伏兵


 2016年10月10日、1頭の名馬が星になった。その名はムービースター。余生を送っていた岩手県奥州市の湯澤ファームで、30年の生涯を閉じた。

 ムービースターといえば、1992年の秋の天皇賞(GI)。直線での激しい攻防、そしてゴール前の「レッツゴーターキン、ムービースター、レッツゴーターキン、ムービースター」という実況が昨日のことのように思い出される。レッツゴーターキンの前に惜しくも2着と敗れはしたが、ムービースターという馬名は、あの実況とともに人々の記憶に深く刻まれることとなった。

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▲1992年の秋の天皇賞、直線での激しい攻防を制したのはレッツゴーターキンだった(撮影:下野雄規)


 ムービースターは、1986年4月9日、北海道白老町の社台ファームで生まれた。父はディクタス、母はダイナビーム、その父はノーザンテーストという血統だ。父ディクタスは阪神3歳S(GI)、マイルCS(GI)とGIを2勝したサッカーボーイや、オールカマー(GIII)など重賞4勝のイクノディクタスを輩出している。ちなみに両馬とも母の父がノーザンテーストで、この組み合わせはムービースターと同じだ。馬主は吉田照哉氏。女優の故・南田洋子氏が共同馬主となっていたことでも知られている。

 1988年9月に栗東の坪憲章厩舎からデビューし、南井克巳騎手の手綱で初陣を飾った。3歳(旧馬齢表記)時は5戦を消化して2勝するが、4歳の春シーズンは勝ち星を挙げられず、クラシック戦線に乗ることはできなかった。

 夏の小倉で当時の900万条件に勝利すると、小倉記念(GIII)5着、神戸新聞杯(GII)3着、ドンカスターS(OP)で2着と好走が続いたが、そこからしばらく勝ち星から見放され、900万条件で4勝目を挙げたのは6歳の2月だった。準オープンに昇級して2、5、3着ののち、格上挑戦となった金鯱賞(GIII)で重賞初制覇をし、続く北九州記念(GIII)にも優勝するなど、6歳にしてムービースターは本格化した。

 翌年には中京記念(GIII)で3つ目の重賞タイトルを手にすると、安田記念(GI)でもヤマニンゼファーの3着と、GIレースでも好走する。そして迎えた7歳の秋シーズン。朝日チャレンジC(GIII・4着)を叩き、自身2度目の秋の天皇賞(GI)を迎えた。

 ゲートが開いてメジロパーマーとダイタクヘリオスが激しくハナを争い、ペースが上がった。2頭の先行争いはしばらく続き、1000m通過は57秒台のハイペースとなった。大本命のトウカイテイオーはトウショウファルコと並んで3、4番手で競馬を進める。その直後にはイクノディクタスが控えていた。

 直線では途中から先頭に立ったダイタクヘリオスが粘るところを、内に進路を取ったトウカイテイオーが、岡部幸雄のムチに応えて先頭を窺った。しかしハイペースが響いたのかトウカイテイオーの伸び脚が鈍ったところへ、外から2頭の馬が脚を伸ばし、あっという間にトウカイテイオーや馬場の真ん中から伸びてきたヤマニングローバルを交わし去る。

「レッツゴーターキン、ムービースター、レッツゴーターキン、ムービースター」とゴール手前でアナウンサーが連呼したのは、あのトウカイテイオーが沈み、代わって追い込んできた2頭の伏兵馬に対しての素直な驚きだったように思う。かくして11番人気のレッツゴーターキンと5番人気のムービースターは、天皇賞という大舞台で馬連万馬券の波乱を演出したのだった。

 明け8歳になってからも現役を続けたムービースターは、中山記念(GII)で重賞4勝目を記録し、夏の小倉では小倉日経OPにも優勝するなど、衰えを感じさせない走りを見せている。その年の暮れ、引退レースの予定だった有馬記念(GI)への出走が叶わず、六甲S(OP)7着を最後にターフに別れを告げた。通算成績は50戦9勝だった。

種牡馬生活に終止符を打ち北海道から岩手県へ


 現役を退いた同馬は、北海道のビッグレッドファームで種牡馬生活に入った。初年度種付け頭数が21頭、2年目は29頭と最初の2年は20頭を超えていたが、目立った産駒が出なかったこともあり、その後は頭数が減少。1999年からは5、3、3、5、3頭と1桁が続き、2003年シーズンを最後に事実上の種牡馬引退となった。

 種牡馬生活に終止符を打ったムービースターは、北海道から岩手県に移動してきた。新しい繋養先は、奥州市にある湯澤ファーム。水沢競馬場から車で20分ほどの場所にあり、同ファームからは、物見山(種山)の美しい三景を目にすることができる。1991年のアルゼンチン共和国杯でヤマニングローバルの2着となったリアルボーイも、かつて繋養されていたというこの牧場が、ムービースターの第三の馬生の舞台であり、終の棲家となった。

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▲湯澤ファームから見える景色(撮影:rosenkavalierさん)


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▲かつてはリアルボーイも繋養されていた名残り(撮影:rosenkavalierさん)


 普段は埼玉県に在住しているという湯澤ファームのオーナーは、2005年に自身の所有馬ドクトルターキンにムービースターを付けている。翌年に女の子が生まれ、ラストムービーと名付けられた。馬名の通りムービースターの最後の産駒となったわけだが、母ドクトルターキンの血統表を遡ると、4代母にオークス馬シャダイターキンの名があった。

 シャダイターキンといえば、天皇賞で優勝し、2着のムービースターとともに波乱の立役者となったレッツゴーターキンの祖母にあたる。レッツゴーターキンと繋がりのあるドクトルターキンだからこそ、湯澤オーナーはムービースターを配合してみたくなったのかもしれない。

 調べてみると、ドクトルターキンの母アスマターキンも湯澤オーナーが所有している。ともに戦ったレッツゴーターキンとゆかりの血脈を持つ馬が、この地へムービースターを導いてきたかのようにも思え、馬と人との縁の不思議を改めて感じるのだった。

 種牡馬から完全に引退したムービースターには、悠々自適な毎日が待っていた。食欲も旺盛で、放牧地では元気に駈け回った。「牧場と言ったら小動物だよね」と場長が連れてきた鶏を一撃でしとめてしまったこともある。動物たちが仲良く暮らすほのぼのした牧場風景を思い描いていた場長の夢は、一瞬でもろくも崩れ去った。時折、垣間見せる気性の激しさがあったからこそ、競馬で力を発揮できたともいえる。

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▲2014年12月当時のムービースター、撮影者が初めて牧場を訪れた時(撮影:rosenkavalierさん)


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 そんなムービースターに魅せられた人は多い。競走馬時代からの熱心なファンだけではなく、競馬を知らず、もちろんムービースターの存在すら知らなかった人々が、ムービースターと出会ってその魅力の虜となった。

 その中の1人、菊池真希さんは、ムービースターと出会って人生が変わった。湯澤ファームのスタッフになり、ムービースターの晩年の3年間をともに歩むこととなったのだ。

(次回へつづく)


※ムービースターの過ごした馬房は、記念に残されています。

湯澤ファーム

〒023-1762
岩手県奥州市江刺区藤里芦ノ口597-2
電話 0197-39-3213
時間 9時〜17時
(直接訪問可)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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