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漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン

  • 2017年12月27日(水) 18時01分
夏目漱石

▲ netkeiba Books+ から「漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン」の0章、1章、2章をお届けいたします。(写真:夏目漱石/amanaimages)


 18世紀のイギリス産業革命の波は、19世紀になるとアジアに及び、鎖国体制の徳川幕府を開国、そして滅亡へと追いやった。横浜や神戸などには居留地が設置され、外国人が母国の暮らしをそのままに楽しむ。そのひとつに競馬があった。当時、競馬は外国文化そのものであり、日本の近代はこれを躊躇なく受け入れた。同じころ、将来の文豪・夏目漱石も同時代人として日本の近代化の波を全身に浴びた一人だった。本書では、さまざまな関連資料を辿りながら、近代競馬の視点から漱石を、そして現代につながる日本の歩みを探っていく。

(文:netkeiba Books+ 編集部)


第0章 序章 生麦事件


文久2年8月21日(新暦1862年9月14日、以下、基本的にすべて新暦表示)、武蔵国橘樹郡生麦村、快晴…

…前方から久光の乗る乗物が、駕籠廻りの藩士にかためられて接近してきた。
それらの藩士の中から長身の男が、顔面を蒼白にして走り出てきた。供頭の奈良原喜左衛門で、乗物は停止していた。
奈良原は、怒りにみちた眼をマーシャルたちに向け、手を激しくふり、
「引き返せ」
と、怒声を浴びせかけた。
 その声に、狼狽したリチャードソンが青ざめた顔をマーシャルたちに向けた。
<中略>
列が乱れ、馬が荒々しく足をはねあげた。
奈良原の口から叫び声がふき出し、刀の柄をつかんでリチャードソンの馬に走り寄った。
 かれは、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。それは、藩主の前で披露したこともある野太刀自顕流の「抜」と称する奈良原の得意とした技であった。
 血が飛び散り、激しい悲鳴があがった…
(吉村昭『生麦事件』より抜粋)


 幕末史上名高い「生麦事件」。薩摩藩主・島津久光の大名行列に騎馬上のイギリス人4人が遭遇、「無礼!」とばかりに、内ひとりを薩摩藩士が斬殺した事件である。その後のイギリス、幕府、薩摩藩の交渉は、さまざまな思惑が絡み賠償交渉は難航を窮めた。吉村昭が描いた小説は、この前代未聞の事件を軸に、明治維新に至る激動の6年間を圧倒的なダイナミズムで描写し、彼の歴史小説の中でも傑作のひとつとなった…。

生麦事件

生麦事件。1862年9月14日、神奈川近郊生麦村で島津久光一行の行列を騎馬の英人4人が横切り、うち1人が薩摩藩士に斬り殺された。同事件を描いた「絵入りロンドンニュース」特派員ワーグマンの絵を複写したもの。


 実際、イギリス人一行は、川崎大師見物に出かける途中で大名行列に出遭ってしまうのだが、当然ながら事件はすさまじい波紋を呼ぶ。実はこの出来事、その後の日本の近代競馬の発展と大きなかかわりがある。いや、その余波に競馬が巻き込まれたと言った方が実情に近いかもしれない…。

 幕末史を思い出してほしい。江戸幕府は、事件に先立つ数年前から日米修好通商条約(1858年)をはじめとして英国などの各国と次々に条約を結び、東京や横浜、神戸などに外国人の居住と貿易を認めていた。いわゆる"外国人居留地"の誕生である。
 中でも生麦村に近い「横浜村」は、条約により開港場として整備・埋め立てられて外国人居留地に指定される。事件に巻き込まれたイギリス人らが住んでいた場所は、現在の中華街や横浜市役所、横浜スタジアム界隈に当たる。

 意外なことに、当時の横浜居留地には競馬場があった。

 日本の近代競馬の発祥地に関しては諸説あるのだが、競馬番組の記録に残っている最も古いものは、文久2(1862)年5月に横浜新田、いまの中華街付近。ここはちょうど居留地の裏手に当たり、1周1,200メートル、幅11メートルの円形馬場として、神奈川奉行が競馬用に柵を設けたものだった。
 この辺の事情を、近代競馬史研究家の早坂昇治は、次のように推測する。

「異境にきた外国人が、たまたま役人の馬場があったので何人かで競馬をしたが、これが、娯楽の少なかった居留外国人の共感を呼び、幕府に交渉して居留地裏の空き地に競馬場をつくらせ、正式に番組をきめて競馬をするようになった…」

 そこを生麦事件の衝撃が襲う。

 生麦事件ののち、横浜居留地の外国人の間では、攘夷の浪人たちが外国人を殺害するのでは、とのうわさが流れ、商店は大半が表戸を閉め、域内で働く日本人も一斉に姿を消すなど、大変な騒ぎとなった。結果、1863年7月、幕府は居留外国人の安全を図るため、外国軍の横浜駐屯を許す事態となる。

 そこで…、

 外国人側は新たな競馬場の建設を要求する(円形競馬場はあくまでも仮の施設であったため、すでに廃止されていた)。生麦事件のような物騒な騒動は二度と御免なので、安全な遊歩道の建設も求める。
 こうして、コースもグランドスタンドも設計はイギリス人が手掛けた根岸競馬場が竣工。1866年、日本に初めての本格的な近代競馬場が登場した。しかも、である。この根岸競馬場は、日本の法律が及ばない居留地にあるという性質上、国内法で禁止されている賭け事が当初から行われていた…。

根岸競馬場

明治20年代の根岸競馬場スタンド(馬見所)横浜開港資料館蔵


 同じころ、

 そう、1866年12月に根岸競馬場が完成したほんの数か月後の1867年2月9日、 江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)でひとりの赤ん坊が生まれた。本名、夏目金之助。長じて英文学者にして、小説家、評論家となる文豪、夏目漱石である。
 実は漱石が生を享けてのちの歩みを見ていくと、日本の近代競馬の進展との不思議な符合が見られる。ただ漱石が競馬に直接かかわったなどの事実はどうやらなさそうだ。だが、漱石のさまざまな足跡を辿っていくと、日本における近代競馬の"揺籃期"とその時代性が見えてくる。
 本書は、その流れを拾っていこうとする、ささやかな試みである。

(1章につづく)
大政奉還

▲ netkeiba Books+ から「漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン」の0章、1章、2章をお届けいたします。(写真:大政奉還 GRANGER.COM/アフロ)


第1章 漱石がうまれたころ


 漱石の生まれた年、江戸市内はいつになく寂しかった。1866年8月に十四代将軍徳川家茂(いえもち)が没し、明けた1月暮れには孝明天皇が崩御。金之助が生まれたころは「鳴物御停止(ごちょうじ)」のおふれが出ていたという。

 それでも町人たちはひとまず例年通りの年始のあいさつを交わしていたようだが、一方で世の中は不穏な空気に急速に包まれていく。十四代将軍の第二次長州征伐中での崩御を受けて、徳川御三家の慶喜は徳川宗家の方は相続したものの将軍職就任は拒み続け、やっと征夷大将軍に就任したのが1867年1月10日のこと。その間、市中の物価は上がり、強盗の数が激増するなど江戸の治安は悪化の一途を辿っていた。

 牛込馬場下の夏目家にも黒装束の8人組が押し入り、50両あまりの小判が強奪されてしまう。

 そんな中、江戸から離れた根岸の競馬場はひとり気を吐いていた。1866年12月に完成した翌月には初めての競馬が開催されており、以後は毎年4、5月ごろと10、11月ごろの春秋2回という具合に、徐々に開催規模を拡大させていく。

 外国の軍隊が駐屯する居留地内では、万全の警備体制が敷かれており、そこでは住民間の親睦を深めるため、演劇などのさまざまなイベントが催されていた。中でも競馬は貴重な娯楽として、居留地全体の"祭り"のようなものだった。

 根岸競馬場の居留地としての契約は明治32(1899)年には終了する。当然、その後は国内法に基づいて"賭け"も禁止されるはずなのだが、日英同盟などによって継続が決まる。そして昭和17(1942)年秋の開催まで76年間、ほぼ毎年春秋の2開催が続けられ、日本近代競馬の中心的役割を果たすことになる。

(2章につづく)

▲ netkeiba Books+ から「漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン」の0章、1章、2章をお届けいたします。


第2章 漱石 親に愛されなかった子


 根岸の競馬場が完成したころ。
 夏目金之助は生後間もなく里子に出されている。理由はよくわからない。
 苗字も夏目姓から養家の塩原姓に代わっている(実際に変わったのは5歳、明治5(1872)年)。幕末から維新にかけての激動の中で、「できるだけ扶養家族をへらしたいような父親の心境」があったのではと、文芸評論家の江藤淳は書いている。

 後年の漱石は書いている―

「私は両親の晩年になって出来た所謂末ッ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云つたとかいふ話が、今でも折々は繰り返されてゐる」

 この言葉を「衝撃的な告白」と評するのは、同じく評論家の三浦雅士である。

 この告白は、死の前年(大正5(1916)年)、48歳ごろに書かれた小品『硝子戸の中』に登場する。これが小説『道草』につながっていくとされるのは、漱石ファンなら周知の事実であろう。

道草

夏目漱石『道草』新潮文庫


 "私小説"とも言われるこの小説では、主人公の健三(漱石と目される)と養父・島田(漱石の養父だった塩原昌之助と目されている)らとの間で、たとえば、こんな会話が展開されている。

(『道草』四十一より)
《彼等が長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父ッさんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指した。
「じゃ御前の御母さんは」
健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
 これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」》


 これは実話なのだろうか。小説の中の"健三"は
 「いやいやながら同じ答えを繰り返すより外に仕方がなかった」
 と辛い心情を吐露している。実際の金之助少年の場合は、その後、養父が外に女を作ったことで、養母と一緒に家を出るが、養夫婦が正式に離婚したため養父に引き取られる…。
 この辺りについて、前掲したふたりの漱石研究家の言説を紹介しておこう―。

「とにかく十代のはじめまでは(漱石は)家庭崩壊の現場をうろついていたようなものなのです」(三浦雅士)

「(「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」)この問は必然的に金之助をある根源的な問に直面させてしまう。自分はいったい誰に、どこに属しているのだろう? それは彼の内部の闇に反響し、意識の奥底に喰い入り、やがて鉛のように存在の深層に沈澱する」(江藤淳)


 この間、東京は明治元(1868)年の"御維新"を経て、急速に変貌していく。約700か所に及ぶ町名変更が強行され、「神仏分離」の新政策が採られ、上野では不忍池を埋め立てて桑茶園にしようとする計画まで持ち上がっていた。急激なインフレは収まるところを知らず、かつての武家屋敷は軒並み競売に出されたが、まったく買い手が付かなかった…。

(続きは 『netkeiba Books+』 で)
漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン
  1. 第0章 序章 生麦事件
  2. 第1章 漱石がうまれたころ
  3. 第2章 漱石 親に愛されなかった子
  4. 第3章 上野不忍池競馬
  5. 第4章 漱石 勉学に励む
  6. 第5章 賭博の世界史
  7. 第6章 英国 ダービーに狂す いわんや漱石をや
  8. 第7章 日本 競馬に狂す
  9. 第8章 殉死的類焼
  10. 第9章 三四郎、朝日新聞、そして競馬
  11. 第10章 上滑りの顛末
  12. 第11章 終章 それから
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