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戦後初の海外遠征とモンキー乗り普及から60年

  • 2018年02月08日(木) 12時00分


 先週につづいて、またここでクイズ。次に挙げる頭数は、何をした馬の数か。

 2013年 14頭
 2014年 27頭
 2015年 27頭
 2016年 31頭
 2017年 11頭

 これだけではわからないと思うので、ヒントを。

 1958年 ハクチカラ(〜59年)
 1960年 オンワードゼア
 1962年 タカマガハラ
 1964年 リユウフオーレル
 1966年 フジノオー(〜67年)

 正解は「その年に海外遠征に出た日本馬の数」である。ヒントに挙げたのは、日本馬として戦後初めて海外に遠征したハクチカラ以降、海外で走った日本の馬たちだ。

 今年、2018年は、ハクチカラが、日本馬として戦後初めて海外遠征に出てからちょうど60年になる。

 旧馬齢で6歳だった牡馬ハクチカラが、主戦騎手の保田隆芳とともに、羽田空港からアメリカに向けて飛び立ったのは、1958(昭和33)年5月26日のことだった。

 その前週、オークスが行われた5月18日の昼休み、ハクチカラは保田を背に東京競馬場のスタンド前を走り、国内最後の勇姿を披露した。さらに、保田がファンの前で意気込みを語るなど、「日本代表」ハクチカラのアメリカ行きは、大変な注目を集めたビッグイベントだった。

 出発当日も、新聞や週刊誌の記者やカメラマンなど、多くの報道陣が羽田空港に集まっていた。ハクチカラの馬主、西博の関係者や、管理した尾形藤吉一門のホースマンやその家族、競走馬の輸送を請け負う商社、野澤組のスタッフ、そして、空港職員や一般の客を加えたら、どのくらいの人数だったのだろう。

 人々の視線の先には、この遠征のためにチャーターされたDC-4型機があった。円窓の上に「HAKUCHIKARA-RACEHORSE SPECIAL」とペイントされたプロペラ機だ。

 これが、日本で初めての競走馬の空輸であった。それまでは、牛や豚などほかの家畜も空輸された例はなかった。

 ゆえに、すべてがオーダーメイドで、しかも手さぐりだった。

 ハクチカラは、両耳の間に小さな座布団のようなクッションをつけていた。人間用の出入口から乗り込むため、頭をぶつけてしまったとき衝撃をやわらげるためだ。

 そのハクチカラが入ったコンテナを、工業用の大型クレーンが吊り上げ、パレットを積み重ねたトラックの荷台に置いた。トラックがバックして、コンテナの扉を飛行機の出入口にぴたっと寄せた。

 あとは、コンテナの扉をあけてハクチカラを機内に誘導すればいいだけとなった。

 ところが、そこからが難儀した。

 最初はハクチカラを後ろ向きに乗せようとした。が、トモの重みで機体がぐらつき、ハクチカラは乗り込むのを嫌がった。その後、何度繰り返しても上手くいかないまま、時間だけが経過した。

 下が見えると怖がるだろうからと後ろ向きで誘導したのだが、逆に、すべて見えたほうが安心できるのではないかと、前向きに歩かせてみた。すると、拍子抜けするくらいすんなりと乗り込んだ。

 ハクチカラが乗ったときには、すでに陽が沈みかけていた。

 機内の椅子は前方の数席を除いてすべて取り外され、中央付近に、ハクチカラの曳き手綱をつなぐ枠場がつくられていた。

 この特別機のチャーター費の1万6000ドル(576万円)を含め、遠征費用は総額1000万円になると言われていた。国家公務員の平均月給が2万円弱、ダービーの1着本賞金が200万円の時代であるから、いかに高額だったかおわかりいただけるだろう。

 遠征の最大目標は、7月12日に西海岸のハリウッドパーク競馬場(2013年廃場)で行われるハリウッドゴールドカップ。1着賞金10万ドル(3600万円)というビッグレースだ。

 招待レースではなかったのだが、受け入れ先のハリウッドターフクラブが5000ドル(180万円)、日本中央競馬会が300万円を補助し、残りを馬主の西が負担した。

 くず鉄拾いから一代にして製鉄所を築き上げた西にそれだけの資力があったことに加え、彼には、ハクチカラの海外遠征に大きな情熱を注ぐ理由があった。4年前の1954年、西が所有していたハクリヨウが、アメリカの国際招待競走ワシントンDCインターナショナルに招待された。しかし、馬が大きすぎて飛行機の貨物室に入ることができなかったのだ。船便にすると時間的に間に合わないため、やむなく遠征を断念することになった。

 ハクリヨウで味わった無念を、自身に初めてダービーオーナーの栄冠を与えてくれたハクチカラで晴らしたいと思ったのだ。

 乗り込んだ人間は、複数のアメリカ人乗務員と保田、そして通訳をつとめる野澤組の石田禮吉だけだった。万が一ハクチカラが暴れて飛行の安全に支障をきたすようなら、同馬を射殺する権限が乗務員に与えられていたという。

「ハクチカラ号、バンザーイ!」と合唱する人々に見送られ、チャーター機は羽田空港から飛び立った。

 ロサンゼルスまでは、給油のためアラスカのコールドベイ、シアトルを経由して30時間の長旅だ。ハクチカラは、離陸のとき、ちょっと脚をバタつかせた程度で、あとはずっとおとなしくしていた。

 ロサンゼルス国際空港では、ゆるやかな傾斜のタラップが用意されており、ハクチカラはすんなり降りることができた。

 かくして、戦後初の日本の人馬による海外遠征は始まった――。

 保田は、渡米したからといって現地のジョッキーライセンスを取得できるという保証はなかった。それでも同行を申し出たのは、現地で「モンキー乗り」を習得したいと思っていたからだった。それまでの日本では、鐙を長くして上体を起こし、両脚で馬体を挟み込む「天神乗り」が普通だった。だが、保田は、このままでは世界の流れに取り残されてしまうという危機感を抱いていたのだ。

 その年の秋、ハクチカラをアメリカに残して帰国した保田は、本場仕込みのモンキー乗りを日本に定着させた。

 つまり、今年は、日本にモンキー乗りが定着してから60年の節目でもあるのだ。

 馬主の西博も、主戦騎手の保田隆芳も、60年の時を経た今、これほど多くの日本の人馬が海をわたって戦うようになるとは思っていなかったのではないか。いや、案外、
 ――ほら、おれたちの言ったとおりの未来になっただろう。

 と天国で微笑んでいるのかもしれない。(文中敬称略)

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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