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驚くほど多くの人とのつながりを描いた調教師の本

  • 2018年03月22日(木) 12時00分


 杉花粉から避難するため、札幌の生家に来ている。

 旅のお伴に2冊の本を持ってきた。伊集院静氏の小説『イザベルに薔薇を』(双葉社)と、小桧山悟調教師のエッセイ集『馬を巡る旅〜遙かなる旅路〜』(三才ブックス)である。

 何度も東京の仕事場でひらいていたのだが、いいところで鼻水がツーと垂れてきたり、悲しくもないのに涙が出てきて集中できず、読みかけになっていた。活字の世界に入り込み、イメージが立ち上がってくると、そこに描かれている人々に命が吹き込まれ、すべての生き物が体温を持ちはじめる。すると、読んでいる私の体温も上がるのか、首や背中が痒くなる。同時に、鼻水や涙が堰を切って溢れ出し、くしゃみが出て目線がブレてしまい、どこまで読んでいたのかわからなくなる。「フェークション!」と自分の声を内耳で聴くことも、立ち上げたイメージを壊すことにつながるのか。かくも花粉症は悩ましい。

 小桧山師の著書は「週刊競馬ブック」の連載をまとめたものだ。あとがきに「僕は競馬に関わる『人』が好きなんです」と書かれているように、これは馬の物語であると同時に、人の物語でもある。もっと言うと、小桧山師と、出会った人々との関係性を描いた物語なのだが、よくぞこれだけたくさんの人たちと、上っ面の付き合いではなく、温かい血の通った交流をしてきたものだと驚かされる。

 大正時代に花形ジョッキーとして活躍した柴田安治を祖とする「柴孫会」のホースマンたち、「大尾形」と呼ばれた歴史的伯楽・尾形藤吉の名のもとに集う「尾形会」の関係者をはじめ、中山馬主会の会長として戦後の競馬復興に尽力した中村勝五郎とその縁者、『蹄の音に誘われて〜「わたしの競馬研究ノート」より〜』で1995年の馬事文化賞を受賞した佐藤正人、現代のアイドル藤田菜七子と伝説の名騎手レスター・ピゴットが出てきたと思えば、動物王国で知られるムツゴロウ、大井の辻野豊調教師、彫刻家の西村修一……と、登場人物の名前を一部敬称略で並べるだけ相当な分量になる。

 描かれているのはさまざまなプロフィールの人々で、それぞれに横のつながりはない――ように見えるのだが、小桧山師がそれらの人々をつなぐ役割を果たしている。

 ジャーナリストやタレントなど、人と会うことを仕事にしているならともかく、この人は調教師である。しかも、馬の調教師でありながらゴリラの本まで出している。

 私も200年ぐらい生きたら真似できるのかもしれないが、小桧山師は私より10年しか長く生きていない。この人の場合、「もう63歳」ではなく、「まだ63歳」と言うべきだ。

 これだけ多くの人々とつながっていることは確かに驚きではあるが、「コビさん」こと小桧山師と30年以上付き合いがあり、「人に会う旅」をともにしたことのある私は、
 ――コビさんならできるよな。

 と納得してしまう(コビさんにしかできない、とも言えるのだが)。

 1990年の初夏、コビさんと私は武豊騎手のアメリカ遠征に同行した。

 コビさんが武騎手の通訳をし、私は両者のクッションのような立場だった。当時、畠山重則厩舎の調教助手だったコビさんは36歳。武騎手は、すでに知らぬ者のないスターだったが、デビュー4年目の21歳だった。その若さで15歳の年齢差は大きい。ちなみに、私は誕生日前だったので25歳だった。

 武騎手が騎乗馬を得たのは、シカゴ郊外のアーリントン国際競馬場(当時の名称)だった。コビさんはヨーロッパ渡航経験はあったのだが、アメリカは初めてだった。それでも、このときは同競馬場最大の国際レース、アーリントンミリオンが開催される「ミリオン・ウィーク」だったので、世界中の関係者が集まっていた。元々の知り合いが渡米してきていたことに加え、出会ったばかりの人ともすぐに親しくなるコビさんは大忙しだった。

 朝の調教のとき、スタンド入口に差しかかると声をかけられ、数歩進むと右手に旧知の友人を見つけて駆け寄り、戻ってきたかと思うと別の人間が握手を求めてきて……という感じで、すぐそこに見えているコースにたどり着くのも苦労するほどなのだ。もちろん、にこやかに話しているのはみな外国人である。日本にいても海外にいても、こうしてつねに人の輪の一部になっているコビさんだからこそ書けた本だと思う。

 その本の最後のほうで、日高町の「ベーシカル・コーチング・スクール」という育成場に触れている。代表の高橋司さんには私もコビさんと一緒に会ったことがある。

 せっかく北海道に来て花粉症の症状がおさまり、会いたい馬がいるので、今週、そこを訪ねることにした。

 来週の本稿に、その様子を記したい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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