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世界に挑んだサムライサラブレッド Part4・アメリカ編

  • 2018年05月02日(水) 17時00分
池江泰郎物語

▲ netkeiba Books+ から世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part4・アメリカ編〜の1章、2章をお届けいたします。(写真:'当時雑誌に掲載されたハクチカラの輸送の様子 / 今井寿恵)


 欧州、アジア・オセアニアなどと比べると、“サムライたち”のアメリカ挑戦史は馬場の違いなどもあり、回数は少ない。だが時間的な流れで見れば、すべてはアメリカから始まっており、そこでの経験をバネに世界へ向けたさらなる飛翔につながっている。サムライサラブレッドの最終編ではその道のりを辿っていく。

(文:『netkeiba Books+ 編集部』)



第1章 「モンキー乗り」が日本に伝わった日

 
 日本調教馬による本格的な海外挑戦の歴史は米国から始まった。というよりも、ハクチカラという1頭の馬の米国遠征によって海外挑戦の扉が開いたと言うべきだろう。

 ハクチカラは、1956年に日本ダービー(G1)で勝利。翌1957年も天皇賞・秋、有馬記念とG1レースに勝利。目黒記念(G2)の春・秋連覇も達成し、デビューから32戦20勝という記録を残して1958年、米国に遠征する。

ハクチカラ:米国遠征までの国内記録

 そして1958年7月2日にカリフォルニア州ハリウッドパーク競馬場で開催された条件級アローワンスを皮切りに、翌1959年7月22日のトゥインクリング賞まで17戦に出走する長い旅となった。米国でG1〜3までのグレード制が導入されるのは1973年。それより10年以上も昔の話だ。

 ハクチカラの米国遠征は、前述のハリウッドパーク競馬場を開設したハリウッド・ターフクラブが費用の一部を負担する形だったが、1958年といえば日本人の海外渡航者数が10万人に満たなかった時代だ。2016年には1700万人を超える日本人が海外に渡航していることを考えれば、隔世の感がある。旅客機も当時はプロペラ機が主流だったが、当然、ハクチカラは“はじめて飛行機に乗った日本調教馬”となった。

 ハクチカラが乗ったのは、ノースウエスト航空のダグラスDC-4型機。プロペラ機だ。戦後、GHQ占領下にあった日本では軍民を問わず航空機の運用が禁じられていた。1951年には日本航空(JAL)が設立されていたが、運用はノースウエスト航空に委託していた(そのノースウエスト航空も2010年、デルタ航空に吸収合併されている)。やはりハクチカラの米国遠征は、現代とは違う枠組みの下での冒険と言うべきなのだろう。ちなみに、ハクチカラが米国での初戦以降、3レースを走ったハリウッドパーク競馬場は2013年に閉鎖されている。

2013年:ハリウッドパーク競馬場での最後のレース

 ハクチカラのオーナー・西博はこのDC-4をチャーターする。その費用、片道1万6000ドル。当時は1ドル=360円の固定レートだから約576万円ということになるが、日本ダービーの優勝賞金が200万円という時代の話だ。西オーナーは、ハクチカラの往復輸送料にダービー優勝賞金の6倍近くを支払ったことになる。

 このイレ込み具合は、どこから来ていたのか。

 西は、1955年に引退するまでに8連勝を含む15勝を挙げ、菊花賞、天皇賞・春などを制したハクリヨウのオーナーでもあった。日本で最強馬と呼ばれるようになっていたそのハクリヨウに、ワシントンDC国際Sから招待状が届く。同レースは、ダートが主流だった米国競馬界でヨーロッパを強く意識して創設された最初の国際レースだった(レースの開催は1994年まで/廃止時G1)。

 この招待に、西は意欲満々で臨もうとしたが、現在では航空業界で普通におこなわれている動物輸送が「当たりまえ」ではなかった時代である。専用機もなく、仮の馬房を作り、貨物として積み込む以外に手段がなかったのだが、ハクリヨウは体躯が大き過ぎて積み込むことができなかったのだ。

 結局、せっかくの国際レースへの招待も辞退せざるを得ず、西は無念を味わうこととなる。だが、このときの経験を踏まえて、ハクチカラの米国遠征に際しては家畜輸送に豊富な経験を持つ業者の協力を仰ぎ、さらにチャーター機まで用意するという万全の準備につながった。

 ハクチカラは、通訳を兼ねた輸送業者のほかは、保田隆芳騎手だけというふたり体制で米国遠征に臨んだ。

 保田は1936年に騎手デビューし、18歳で第1回のオークスに勝利。その後も日本ダービー、天皇賞、桜花賞などを制した名ジョッキーだが、当時の米国競馬界では米国籍を持たないジョッキーの騎乗は認めない規定があった。そのため、米国での保田には厩務員兼務という任務が与えられてしまう。

 しかし、かつての敵国であった日本の有力ジョッキーが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、初めて日本調教馬とともに米国まで遠征してきたのだ。そこを考慮して特例として保田の騎乗が最終的には認められた。

 もっとも、保田の騎乗は米国遠征5戦目まで。成績としては1958年7月22日にハリウッドパーク競馬場で開催されたサンセットHでの6頭中4着が最高だった。

 保田はハクチカラを残して米国をあとにする。

ハクチカラ:米国での保田隆芳騎手との記録

 力を出し切れなかった、やり残したことがある…そんな思いが彼の胸にはあっただろう。しかし、保田はのちの日本競馬を飛躍的に進歩させることとなる、ある技術を携えて帰国していた。

 その技術とは“モンキー乗り”。
 今日では日本のレースでも当たりまえに目にする、騎手が鞍に腰を下ろさずに騎乗するスタイルだが、ハクチカラ以前の日本競馬界では決してスタンダードではなかった。

 モンキー乗りは20世紀の初頭から日本に伝わっていたものの、日本の競馬界では長い鐙を用いて騎手が馬の背に尻を乗せる伝統的な天神乗りがまだ幅を利かせていた。言うまでもなく、馬の背に騎手が腰を下ろしてしまえば後ろ荷重となる。腰を浮かせて前方に体重をかけるモンキー乗りとの推進力の違いは歴然としている。

 言い方を変えれば、ハクチカラの遠征は日本の競馬がそれほどまで技術的にも世界のスタンダードから遅れていた時代のことだった。

(2章につづく)
日本ダービー馬、米国重賞初制覇

▲ netkeiba Books+ から世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part4・アメリカ編〜の1章、2章をお届けいたします。(写真:'56日本ダービーを制したハクチカラ / 毎日新聞社/アフロ)



第2章 日本ダービー馬、米国重賞初制覇

 
 当時、日米の競馬界にあった差異は騎乗スタイルだけではなかった。

 飼料も、そのひとつだった。人間の食事同様、米国では競走馬の飼料も日本に比べ栄養価が高い。ハクチカラが日本で食べていたのと同量を与えたのでは、当然、ベストの体重をオーバーしてしまうことになる。そこで飼料の量を減らしたのだが、ハクチカラは苛立ちを示し、ときには寝藁を食べてしまうこともあった。だが、1958年5月の米国到着から4カ月が経過し、保田騎手が単身帰国した頃から徐々に米国の飼料にも馴れてくる。

 蹄鉄の違いもあった。ダートレースが主流の米国では、日本では認められていない「スパイク蹄鉄」が使用されているが、これもハクチカラを悩ませた。米国での拠点となったハリウッドパーク競馬場の柔らかい馬場もハクチカラのフォームを崩したという。

 しかし、こういった違いも乗り越え、ハクチカラは米国式の調教でコンディションを整えていく。米国のR.ホイーラー調教師の献身的な働きが大きかった。

 そして1958年12月26日、サンタアニタパーク競馬場で米国6戦目・トーナメントオブローゼス賞のときが来た。鞍上は保田隆芳から代ったE.アーキャロ騎手。ここで2着と好走を見せると、翌1959年もアーキャロが騎乗を続け、1月の3レースで3着・2着・5着とコンスタントに力を示した。

 2月10日のサンルイレイHからは鞍上がR.ヨークに代るが、ここでも4着。まだ米国での勝利はなかったものの、ハクチカラは充実の状態に入ったと言えるだろう。そして、2月23日にサンタアニタパーク競馬場で開催のワシントンズバースデイHを迎えたのである。

 サンタアニタパーク競馬場は1934年の開場で、2013年に閉鎖されたハリウッドパーク競馬場、デルマー競馬場とともに米西海岸の「3大競馬場」と称され、最古の歴史を誇る名門だ。

1934年:オープン当日のサンタアニタパーク競馬場

 その日、サンタアニタパーク競馬場には4万5000人の競馬ファンが詰めかけた。彼らのお目当ては、前年の米国年度代表馬にも選出され、引退までに計16度のレコード勝ちを記録した伝説の名馬ラウンドテーブル。当然、オッズでも大本命となっていたが、結果的にはレース中に右前脚を負傷するアクシデントもあり、16着に沈んでしまった。

 だが、このレースでラウンドテーブルはハクチカラと11.5キロ差という重いハンデを背負わされていた点は特記すべきだろう。なにしろこのアクシデントから復帰後、この年9勝を挙げ、その内7つがレコード勝ちだったのだから…。

 ワシントンズバースデイHは芝2400メートルで争われるレース。スタート後、ハクチカラは約800メートルの地点で先頭に立つとレースをリード。最後の直線に入り、アニサド(Anisado)の猛追をしのぎ、そのままクビ差でゴールイン。タイムは2分32秒4。単勝45.7倍という大穴の勝利だった。

 前章でも述べたように、当時はグレード制が導入される以前で、このワシントンズバースデイHというレースの格については今日でも議論がある。しかし、1973年に米国でグレード制が導入されると同時にG1に格づけされたケンタッキーダービーの1959年当時の優勝賞金は11万9650ドルだった。ケンタッキーダービーは現在も米国3歳馬の最高峰レースだが、ハクチカラが勝利したワシントンズバースデイHの優勝賞金は5万ドル。十分な重みのある「価値のある勝利」と言っていいだろう。

ハクチカラ:米国での全記録

 日本調教馬による海外挑戦の嚆矢となり、人間も海外に渡航することが稀だった時代にハクチカラは米国で17戦に出走した。帰国後は種牡馬となったが、なにぶん当時の日本の生産界では外国産馬が重用される傾向が強かった。日本調教馬として初の海外勝利を挙げたハクチカラですら必ずしも特別な価値を持っていたわけではなかった。

 結局、米国遠征から10年後の1968年、ハクチカラはインドに寄贈される。同国は旧英領で競馬も盛んだ。ハクチカラはデカン高原のクニガル牧場で種牡馬として共用され、2頭のクラシック優勝馬を含め多くの優駿を輩出した。

 1979年に老衰のため死去したが、インド競馬界はハクチカラの功績を讃え立派な墓を建て、次のように銘した。

《日本でダービーに勝ち、米国で重賞を制覇、種牡馬としてインドに死す》

(続きは 『netkeiba Books+』 で)
世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part4・アメリカ編〜
  1. 第1章 「モンキー乗り」が日本に伝わった日
  2. 第2章 日本ダービー馬、米国重賞初制覇
  3. 第3章 ワシントンDC国際Sが日本馬に伝えたもの
  4. 第4章 牝馬による海外初勝利の軌跡
  5. 第5章 日米オークスを制した唯一無二の女王
  6. 第6章 海外挑戦史から見える競馬の国際性
  7. 第7章 【米国競馬場ガイド】なぜ、米国競馬はダートレース主流なのか!?
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