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スペシャルウィーク(上)−不世出の天才に贈ったダービージョッキーの称号

  • 2019年01月29日(火) 18時15分
スペシャルウィーク

▲ netkeiba Books+ から『スペシャルウィーク(上)』の1章、2章をお届けいたします。


通算4000勝をはじめとして、日本競馬界に燦然たる足跡を刻み続ける武豊騎手に、最初にダービージョッキーの称号を贈ったスペシャルウィーク。生後すぐに訪れた母との別れ、ダービー制覇までの道のり、エルコンドルパサーやグラスワンダー、セイウンスカイら同期との熾烈なライバル対決…。記録だけでは語れない“記憶に残る名馬”の生涯を辿る。

(文:木村俊太)
(写真:下野雄規、JRA、netkeiba)


1章 未来の優駿に愛情をそそいだ2頭の母馬と1人の女性


 1995年5月2日、北海道沙流郡日高町にある日高大洋牧場。そこで一頭の牝馬が苦痛に悶えていた。腸の一部が壊死しており、今まさに命の危機が迫っていた。キャンペンガールという名の繁殖牝馬のお腹には、稀代の名種牡馬サンデーサイレンスの仔が宿っていた。

「もう母馬は助からないだろう。でも、せめて仔馬だけでも助けたい」

 そんな思いで牧場スタッフたちの看病が続けられていた。だが、もう限界かもしれない。母馬が死んでしまえば、仔馬も危ない。出産予定日は5月中旬。ちょっと早いが、命には代えられない。これまでにないほどの苦しみ方を見せるキャンペンガールを見て、牧場の小野田宏代表は母馬に陣痛促進剤を投与することを決めた。

 腸炎の痛みに陣痛が加わり、二重の痛みが母馬を襲う。だが、母馬は最後の力を振り絞り、胎内の仔馬を産み落とそうと力を入れる。

「見えたぞ!」

 仔馬が見える。あとは人の力で一気に引き出す。新しい命の誕生である。仔馬は黒鹿毛の牡馬だった。

「よし、急いで乳母(うば)馬の手配だ」

 母馬のキャンペンガールは初乳を与えることができる容体ではない。乳が出ないなど、子育てができない母馬のための乳母馬をレンタルしてくれる専門の牧場がある。そこに依頼しようということだった。だが、どんなに早くても数時間は来ない。それまでは哺乳瓶を使って、人の手で人工乳を与えることになった。

 数時間後、乳母馬がやってきた。乳母馬はサラブレッドなどの軽種馬ではなく、ソリなどを引く重種馬である。一般的に軽種馬は気性が荒いため、比較的おとなしい重種馬のほうが乳母馬には向いているとされるからである。

 しかし、やってきた乳母馬は、重種馬にしては気性が荒い馬だった。仔馬に乳を与えるどころか、遠ざけようとしてしまったのである。乳がもらえなければ、仔馬の命が危ない。栄養面でも、人間の手間の面でも、人工乳だけで馬を育てるのは不可能だ。

 やむを得ず、牧場スタッフは即席の木製やぐらを作り、そのなかに乳母馬を入れて動かないようにした。お乳の部分は外に出るようにして、仔馬が飲みたいときにはいつでも飲めるようにしたのだ。いつまでも乳母馬をやぐらに繋いでおくわけにもいかないが、お互いに慣れるまでは仕方がない。

 仔馬が人の手を離れ、乳母馬の乳を飲めるようになったちょうどその頃、出産馬房で苦しんでいたキャンペンガールがひっそりと息を引き取った。ようやく苦しみから解放されたような安らかな顔だった。自らの命と引き換えに仔馬に与えたものは、「無事」という名の最大の愛だった。

 乳母馬は2日間、やぐらにつながれ、3日目に外に出された。ここまで、仔馬に乳母馬の糞を擦り付けて、少しでも嫌がらないようにするなど、とにかく人の手でできることはすべてやってみた。それでも仔馬を受け入れないようなら、別の乳母馬を用意しなければならない。

 とはいえ、別の乳母馬がすんなりと仔馬を受け入れてくれるという保証もない。ここまでのことをもう一度、やり直さなければならないかもしれないし、今度は仔馬のほうが「母親とは違う」と思って、乳を飲まないかもしれない。

 やぐらから出た乳母馬は、仔馬が乳を飲むことを容認する態度を取った。完全に受け入れたわけではないのかもしれないが、とにかく仔馬は乳母馬の乳をやぐらなしでも飲むことができたのである。牧場スタッフにとってはまずは一安心。乳母馬は交代せず、できる限り、人が目を離さないようにすることで対応することになった。

 仔馬は乳母馬を母と慕い、すくすくと育っていった。すくすくと育ってくれたことはとても良かったのだが、今度は別の問題が発生した。重種馬は軽種馬と比べて2倍から3倍も乳の出が多い。仔馬は飲みたいときに飲みたいだけ乳を飲むので、放っておくとどんどんと太ってしまい、脚への負担も大きくなって、ケガのリスクも高まってしまうのである。そのため仔馬を当初の予定よりも約1カ月早く、離乳させることにした。

 9月初旬、突然、その日はやってきた。血の繋がらない親子は人の手によって引き離され、別々の暮らしをすることになった。血は繋がらないとはいえ、4カ月間、同じ馬房で暮らし、乳を飲み(飲ませ)、いつも一緒に放牧されていた2頭は、最初の頃がウソのように、もうれっきとした親子になっていた。

 離乳は競走馬となるためには誰もが通る道である。母の愛情を知らずに育った仔馬は、乳母の愛によってすくすくと育ったが、またひとつ、大きな試練を乗り越えなければならなかった。

 仔馬は見えなくなった乳母馬を慕って鳴き続け、乳母馬も姿の見えない仔馬を呼び続けた。しかし、お互い、数日間、鳴き続けたが、やがて鳴くのをやめた。乳母馬はその役目を終え、レンタル会社へと返還された。2頭はもう二度と会うことはなかった。

 母の愛を二度までも奪われることになった仔馬だったが、その愛に優るとも劣らない愛情を注ぐ者が現れた。最初の母は軽種馬、二度目の母は重種馬だったが、三番目の母は“人間”という種だった。それは、ニュージーランドからやってきたティナという若い女性だった。


(2章につづく)
スペシャルウィーク

▲ 1998年の弥生賞を制したスペシャルウィーク


第2章 幼少期から垣間見えたポテンシャルの高さ


 1995年の秋、日高大洋牧場にはニュージーランドからティナという名の女性が働きに来ていた。小野田宏代表は、キャンペンガールの仔馬の育成を、このティナに担当させることにした。母親の愛情を知らずに育った仔馬にとって、当たりのやさしい女性のほうが合うのではないかとの判断からだった。

 仔馬には、まずはブレーキング(馴致)で背中に人を乗せることを覚えさせるのだが、キャンペンガールの仔馬は、人のいうことをよく聞く、非常に扱いやすい馬だった。すぐに人を乗せることを覚え、成長を見守る仔馬の段階から競走馬としての育成段階へと順調に移行することができた。

 育成段階に入ると、仔馬はさらに賢さを見せた。ティナが教えることは何でもすぐに理解し、次々とできるようになっていった。ティナは教えれば教えるだけ成長する仔馬に惚れ込み、夢中になっていった。キャンペンガールの仔馬にだけ、他馬の何倍もの時間をかけて世話をした。仔馬の体をすみからすみまで入念にチェックし、丁寧に手入れをした。

 しかし、当然ながら、これによって他馬の世話にかける時間が極端に短くなってしまった。ティナの担当は、キャンペンガールの仔馬1頭だけではない。何頭も担当を持っていたのだが、この1頭の仔馬にばかり手間と時間をかけてしまうので、他馬の世話がおろそかになってしまっていた。

 小野田代表は何度も口酸っぱく注意したが、ティナは「この仔は私が世話をしなければならないのです」といい、その行動はまったく変わらなかった。仕方なく、他のスタッフがティナの担当馬の世話を手伝うはめになった。

 ある日、小野田代表はそろそろ本格的に走りを覚えさせようと、ティナに15−15(1ハロン15秒程度)で走らせるように指示を出した。ティナはうれしそうに仔馬に跨り、走らせた。ところが、まったくペースが上がらない。まるで遊びながら走っているようだった。

「遅すぎる。ティナは何をやっているんだ。これでは調教にならない」

 馬を止めて注意しようと思った小野田代表は、時計を見て目を疑った。なんと1ハロン14秒台を出していたのである。

「走り方とスピード感がまるっきり違う。本気で走ったら、どこまで速くなるんだ」

 小野田代表は、改めてこの仔馬の潜在能力に驚かされた。

 キャンペンガールの仔馬の世話が生きがいにまでなっていたティナに、突然の別れがやってきた。1997年5月(仔馬2歳、当時の馬齢では3歳)、キャンペンガールの仔馬は、育成牧場のノーザンファーム空港牧場へと移ることになったのである。これは、入厩予定の白井寿昭調教師と臼田浩義オーナーの意向によるものだった。

 もちろん、日高大洋牧場にも育成施設はあるのだが、早い段階から、より設備の整った大規模な育成牧場で育成したほうがいいだろうという判断だった。そして、白井調教師にとっては、もうひとつ、大きな理由があった。ノーザンファーム空港牧場には、白井調教師の息子、白井秀幸厩務員が勤務していたからである。息子の勤務する牧場に預ければ、いつでも気兼ねなく連絡を取り合え、些細なこともお互いに伝え合うことができる。

 日高大洋牧場の小野田代表と白井調教師はお互いに深く信頼し合う仲だったが、親しき仲にも礼儀ありで、やはり親子で連絡を取り合うようにはいかない。息子に管理を任せることで、白井調教師は栗東にいながらにして、馬の様子を手に取るように知ることができる。そのメリットは、計り知れないほど大きいと考えていた。

 だが、ティナはどうしても納得できなかった。トレセンへの入厩は秋を予定していたので、10月か11月ぐらいまでは、仔馬と一緒にいられると思っていた。それなのに、思っていたより半年近くも早く、しかも突然に別れがやってきたのだ。

 競馬のためにトレセンに行くならわかる。しかし、日高大洋牧場でもできる育成を、しかも自分がやっていたことを他の牧場に任せるというのは、どうにも納得がいかない。ティナは小野田代表に泣いてすがったが、小野田としても調教師とオーナーの意向ではどうしようもなかった。

「この仔馬を強くするためなんだ」

 そういうしかなかったが、ティナが納得するはずもなかった。5月20日、泣きじゃくるティナから無理やり引き離された仔馬は、馬運車に乗せられ、日高大洋牧場を後にした。

 ノーザンファーム空港牧場では、キャンペンガールの仔馬を、尾形重和獣医の管轄のもと、白井調教師の息子の白井秀幸厩務員が担当することになった。もちろん、白井調教師との密な連絡を期待しての担当配置である。ちなみに、尾形獣医は美浦トレセン所属の尾形充弘調教師のいとこに当たる。

 じつは、このキャンペンガールの仔馬の入厩直前まで、のちにグラスワンダーと名付けられ、この馬と激闘を繰り広げることになる同い年の仔馬が、ノーザンファーム空港牧場で育成に励んでいた。このときグラスワンダーはすでに尾形充弘厩舎に入厩していたが、尾形調教師がいとこの尾形獣医のいるこの牧場に預けたのも偶然ではなく、やはり連絡を密に取り合えるからに他ならなかった。

 グラスワンダーは牧場内でも突出して目立つ存在だった。だが、尾形獣医はキャンペンガールの仔馬の走りを見て、それにもヒケを取らないほどの馬であることを見抜いていた。白井厩務員に、この2頭はどちらの馬もズバ抜けて素晴らしいと伝えていた。

 白井厩務員は、キャンペンガールの仔馬に跨ると、その走りの軽快さにすぐに魅了された。さらに、教えることをすぐに自分のものにして、できるようになる賢さにも驚いた。ただ、気になることがあった。よく物見をして、走りに集中できないことがあったのである。

 より自然に近いほうがリラックスして走れるだろうと思い、両脇が林になっているコースを中心に調教をしていたのだが、警戒するように林のほうを気にしたり、鳥が飛び立つだけでビックリして暴れたりすることもあった。ブリンカーやシャドーロールを付けるなど、いくつかの手を試みたが、改善されることはなかった。

 そこで白井厩務員は、コースそのものを変えてみることにした。事務所棟に程近い、人工物が多く見えるコースで走らせることにしたのである。すると、それまでのような物見をせず、走りに集中するようになり、これまで以上にいい走りを見せるようになっていった。

「普通は人間のいる建物が見えるコースより、自然に囲まれたコースのほうが落ち着いた走りをするものだが…。生まれたときから人の手で育てられたと聞いているが、そういう影響もあるのかもしれないな」

 白井厩務員はそんなことを考えながら、キャンペンガールの仔馬の柔らかい走りを堪能していた。

 キャンペンガールの仔馬は、ノーザンファーム空港牧場での約4カ月の育成調教を経て、9月19日、白井寿昭厩舎のある栗東トレセンに向かった。翌20日、無事に厩舎に到着し、白井厩舎に入厩。担当厩務員には、村田浩行調教助手が選ばれた。

 村田厩務員は、白井厩舎所属のオークス馬ダンスパートナーの担当でもあった。白井調教師は、キャンペンガールの仔馬がダンスパートナーに似ていると感じていたこともあり、同じように育ててくれたらと期待して、村田厩務員に任せることにした。

 そして、白井調教師はスタッフを集めてこう宣言した。

「この馬でダービーへ行こう!」

 本気が半分、スタッフへの鼓舞が半分といった気持ちだったが、ダンスパートナーでオークスを勝った経験から、「この牡馬ならダービーも」という気持ちも強かった。ただ、「ダービーを勝とう」ではなく「ダービーに行こう」という表現からもわかるように、この段階ではまだ「勝てる」という自信まではなかったと言える。もっとも、入厩してきた新馬を見て、自信満々で「ダービーを勝てる」と言い切れる調教師はいないかもしれない。

 キャンペンガールの仔馬はスペシャルウィークと名付けられた。臼田オーナーが、父馬のサンデーサイレンスの「サンデー」から連想した「ウィーク」に「特別な馬」という意味で「スペシャル」を付け、この名前になった。

 ノーザンファーム空港牧場の白井厩務員は、スペシャルウィークが父親の厩舎に入厩したあとも、気になって仕方がなかった。ことあるごとに、いや、何もなくても父親に電話を入れた。

「あの馬、絶対に走るから、(武)豊さんに乗ってもらったらいいよ」
「豊さん、もう乗った? まだなの? なんでまだ、乗ってないの?」
「豊さん、乗った? なんて言ってた?」

 いち新馬の中間調教に武豊騎手がいきなり乗るわけがないのだが、白井厩務員にとってそれほど期待の大きな馬だったということがよくわかる。だが、実際にこの馬が武豊騎手に大きなタイトルを与えてくれる馬になるとは、このときはまだ誰も知る由もなかった。


スペシャルウィーク

キングヘイローを退けた京都新聞杯


(続きは 『netkeiba Books+』 で)
スペシャルウィーク(上) −不世出の天才に贈ったダービージョッキーの称号
  1. 第1章 未来の優駿に愛情をそそいだ2頭の母馬と1人の女性
  2. 第2章 幼少期から垣間見えたポテンシャルの高さ
  3. 第3章 レース選択に悩む陣営をよそにクラシック候補に名乗り
  4. 第4章 不利な枠順に泣いた1冠目の雪辱を期して
  5. 第5章 最高の舞台で最高の結果として結実したみんなの想い
  6. 第6章 馬体重に悩まされながら迎えた飛躍の秋
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