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武豊がスター街道を歩むきっかけとなった87年京都大賞典

デイリースポーツ
  • 2016年10月04日(火) 06時00分
 千里の道も一歩から-。先日、前人未踏のJRA所属馬による通算4000勝(地方、海外を含む)を達成した武豊騎手。新たな金字塔を打ち立てた名手の重賞初制覇は、今から29年前。京都大賞典だった。

 87年。3歳時にオークスを制したトウカイローマンだったが、その後は5歳時にオープン特別のジューンSを勝ったものの、重賞では善戦止まりだった。6歳の夏。同馬を管理していた中村均調教師は思い切った決断をする。8月のG3・小倉記念に、同年にデビューしたての新人・武豊を鞍上に指名した。

 中村が当時を振り返る。「懐かしいね。あのときのユタカ君はまだ減量が取れていなかったんじゃないかな?1番人気に支持されたんだけど、5着だったかな。ただ、あの年の夏は馬の調子がもうひとつだったんだ」。

 当時、重賞レースに新人を乗せるのは「調教師として勇気がいることだった」と中村は話す。それでも、伸びあぐねるローマンを変えられるのは彼しかいない。中村に迷いはなかった。「デビュー時からずっと彼を見ていたが、他の騎手とは違う“何か”を持っていた。それは“彼なら一発やってくれるのではないか?”という期待感。上手いとか下手とかではなく、大スターになりそうな雰囲気を持っていた」。

 小倉記念で5着に敗れたローマンは、中村の懇願もあり、次戦の京都大賞典武豊とコンビを組むことになった。「彼のお父さんの武邦彦さんにそのことを伝えたら“ユタカで大丈夫?もっといいジョッキーがいるんじゃないの?”って話していたのを覚えている。人気もなかった(9頭立て6番人気)し、彼の可能性にかけてみたけど、ちょうど馬も秋になって調子を上げてきたんだ」。

 レースは好位4番手をソツなく進み、4角で大外へ持ち出す。直線半ばで先頭に躍り出ると、鮮やかに後続の追撃を振り切った。「あの京都大賞典は、まさにこちらの期待に応えてくれたレースだった。一発やってくれたよね。彼はあの勝利から注目され始めて、確か翌週の京都新聞杯も関東馬(レオテンザン)で勝ったんじゃないかな?その後も着々と勝ち星を積み上げて、大スターへの道を歩んで行ったよね」。

 久々の重賞タイトルを手にしたローマンは次戦、世界の強豪が集うジャパンCに参戦。中村は引き続き、鞍上に武豊を指名した。「戦前にレセプションがあってね。世界のトレーナーやジョッキーら、そうそうたるメンバーが集まった。そのなかで、僕もまだ30代で若かったけど、メディアのインタビューに答えていたユタカ君は、確かまだ丸刈りだったと思うよ。惨敗(11着)したけど、今ではいい思い出だね」。

 実は、武豊の初めての日本ダービー参戦も中村の管理馬(88年コスモアンバー16着)。のちの4000勝ジョッキーのブレークのきっかけを作ったのは、中村といっても過言ではない。「スターになるまでの駆け上がり方がものすごかった。駆け足で、急な階段を走って登っていく感じだったね。一気に駆け上がってしまったから、デビューから2年もしたらもう頼めなくなったよ(笑い)」。

 一方、功労馬とも言えるトウカイローマンは、ジャパンC11着後の有馬記念(11着)がラストランに。実は、繁殖入り後にこの馬がのちの名馬トウカイテイオーの出生の鍵を握るのだが、それはまた別の機会に話させてもらおう。いずれにしても、名手の大記録達成へのターニングポイントが87年京都大賞典だったのは間違いない。今年で51回目を迎える伝統の一戦。47歳となった武豊は今年、G1・2勝馬キタサンブラックとのコンビで11年ぶり8度目の勝利を目指す。(松浦孝司)

提供:デイリースポーツ

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