こう考えてみた。日々の生活で「あたりまえ」と思うところには、満足はないと。ではこの満足は、どういうときに得られるか。
くどいようだが、「あたりまえ」と思っていたことが「あたりまえでない」と気づかないことにはどう仕様もないようだ。もっと広く捉えると、「生きているのがあたりまえ」と思っていたのでは満足は得られないし、これを「天の恵みをいただいて生きている」と気づくことで満足は得られる。つまりは、どれだけ謙虚であるかということになる。「有り難い」とか「感謝する」という心が、どれほど大きな幸せに導いてくれるか、そう感じることの大切さを思い知るのだ。
この「あたりまえ」、競馬では、まず有り得ない。強がってみてそう気張ってみせることはあっても、現実、そうではない。どれほど「たまたま」とか「偶然」に支配されてきたことか。その「偶然」で得たものを「あたりまえ」と力んで言ってみて、ちょっとした優越感を味わう、これが楽しいとやってみることは多々あった。しかし、それは「たまたま」得たことにすぎないから、やがて空しさが残るのだ。これを繰り返すだけでは、競馬に取り組む意欲にも影響していく。とうてい満足は得られない。
ここにも、「天の恵みをいただいて」という思いが見えていなければならない。「たまたま」なのだから、よき結果には「有り難い」とか「感謝する」という心を持ち、そこから生まれてくる感動まで味わえるようになっていきたい。競馬は、日々の生活のサイクルよりもきっちりして早いから、さらに言えば、その事柄がはっきりしているから、そこにある「たまたま」もしっかり見えている。「たまたま」がたまたまにしかやって来ないので、そうなったときのうれしさは格別。その瞬間、素直に「有り難い」と感謝すればいいのだ。そのちょっとしたことに気づくか気づかないかで、競馬の持つ意味は違ってくる。