何事にも逆らわない柔軟性があるか。困難にどう対応するか迫られたとき、状況を切る抜ける手立てとして、この心情、心構えは大いに生きる。柔軟性を持つことは知恵をつけることに等しく、それができなければとても生き抜くことは難しいとさえ思える。
競馬にこれを応用するのもひとつのやり方だ。いくら考えても駄目、どう仕様もない、こういうときは何かに取りつかれたように自分の思考が機能していない。なのにその事に気づいていないのだから始末が悪い。ここで頭を切り替えられるかどうか。
競馬には、その日の傾向らしきものがあるものだ。レースの流れにせよ、人気馬の動向にせよ、騎手の運気にせよ、目に見えてはっきりしていなくとも、そうした気配を感じることがある。人間は、目に見えない何かを感じる力を持っている。目に見えるものしか信じないのでは少し足りない。
その日の競馬の中に、そうした見えない何かを感じるという感性の生きる部分は無視できないし、それがあるから面白いのだと言えるではないか。
競走馬にレースセンスがあるように、見る側にも競馬センスがあり、柔軟性はその源泉と言ってもいい。
今日も駄目だ、駄目だと愚痴ばかり言ってはその場の雰囲気を悪くしている者がよくいる。本人は気づいていないのだが、その口癖が人の気分を害しているのだ。
意識してその苦境から脱出するには、考え方に柔軟性を駆使するしかない。なんとしても切り抜けようという執念を底力にしてだ。
硬直した思考からは何も生まれない。状況を受けとめ、「頭脳は柔軟に」そして「行動は機敏に」というのがいい。自分のスタイルも大切だが、駄目なら替えてみるという柔軟性こそ、強さを生む力になるし、生き抜く知恵がつく。こだわりを捨て、変幻自在もたまにはいいではないか。