かまびすしい、この騒がしいとかやかましいという意味の言葉、今ではほとんど耳にしなくなった。それだけ、やかましくあざとい姿が氾濫しているからではないかと思う。
かつての産業社会から、現在の情報社会と呼ぶようになって久しい。そのもたらしたものとは何だろうか。このかまびすしいに大いに関係している。そして、それは競馬の周辺にまで及んでいるようだ。
モノ中心からヒト中心へ、そういう変化を生んだ社会は、かつての伝統、遺産、美を特に尊ぶ文化から、人の口の端にのぼること、つまり話題性を重視する文化へと変えたように思う。そこには、テレビが大きく介在している。情報化社会のもたらす話題性、それは競馬にも影響があり、あまりにもそれを競うが為に本質を見失いそうになっているのではないか。そう思えてならない。
話題性の度が過ぎて、やかましくあざとい姿ばかりが目に飛び込んでうるさいという声をよく耳にするのだ。競馬の為には、それはよくない。話題性重視の文化では、絶えず胸騒ぎを覚え、じっくり落ちついていられないではないか。
運命を切り開く力が、知識や学問によってもたらされるように、競馬の本質をより深く探ることで得られるものは大きい。光のささないまっ暗な場所を明るくしてくれるだろうし、第一に、競馬にゆとりを持ってつき合えるようになれる。
面白いという気持ちは、ゆとりのない心には生まれてこない。情報化の波に汚染されないということで、このゆとりを持てるようになりたい。これは、競馬に落ちついた雰囲気をつくり出すし、上等で上品なブラッドスポーツの魅力を、広く知ってもらえる原動力になる。とりあえずは、目の前の馬をしっかり受けとめてこの感性を磨くところから始めたい。自分なりの感性を持って競馬に接していれば、間違いなくゆとりが生まれる。