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ダトロー師の嫌疑

  • 2011年02月22日(火) 00時00分
 2008年の2冠馬ビッグブラウンなどを育てたことで知られる東海岸のトップトレーナー、リチャード・ダトロー調教師が、ニューヨーク競馬協会から90日間の資格停止処分を通達された。ダトロー師には2件の嫌疑がかけられており、その2件に対するペナルティの合計が、90日となったのだ。

 1件目は、昨年11月3日。係官が査察のために訪れたアケダクト競馬場にあるダトロー厩舎で、ニューヨーク州をはじめ多くの州で使用が禁じられている皮下注射用の注射針が見つかった件。なぜ査察が入ったのか、詳細は明らかではないが、おそらくは関係者からの密告があったのであろう。当日ダトローは、間近に迫ったブリーダーズCに出走する馬たちに付き添い、ケンタッキー州チャーチルダウンズに出向いており、不在であった。この件に関する罰則として、まずは30日の資格停止。

 2件目は、昨年11月20日、アケダクト競馬場で行なわれた第3レースで勝利を挙げた、ダトロー厩舎所属馬のファスタスカクタス(2006年生まれ、父カクタスリッジ)から、レース後の薬物検査で禁止薬物に指定されている鎮痛剤のビュトーフェノールが検出された件。これに対する罰則として、60日の資格停止が科され、合計で90日の資格停止が、2月16日に通達されたのである。

 ダトロー師はこれに対し、異議を申し立てており、処分を申し渡したニューヨーク競馬協会と徹底抗戦の構えを見せている。現在は、裁判で言えば求刑が出た段階で、有罪が確定し刑の執行が決まったわけではなく、従ってダトロー師の身分は保全され、彼の管理馬は当面の間、レースに出走することが出来る。過去の例をひもとくと、調教師サイドの異議が認められ、処分が撤回されたり、資格停止期間が短縮されたりしたケースも見られるのだが、今回ばかりはダトロー師は非常に厳しい立場に立たされているというのが、大方の見るところだ。

 というのも、ダトロー師には前科があるのだ。と言うか、常習犯と言ってよいほど、多彩な犯歴を持った人物なのである。

 Association of Racing Commissioners International(ARCI=国際競馬委員協会)の調べによると、開業以来今日までの30有余年の間に、彼本人、もしくはダトロー厩舎のスタッフが、何らかのルール違反を犯して処分の対象となったケースが、実に64回に及ぶという。9つの州にまたがる15の競馬場で問題を起こしているというから、敢えてきつい言葉を使えば「札付き」の男なのである。

 2003年4月、アケダクトのレースに出走した管理馬ファーマージェイクから、麻酔薬の一種であるメピヴァケインが検出されたこともあれば、2004年1月には同じアケダクトで、管理馬スターシップスモークスターから、呼吸を助ける効用のあるクレンビュテロールの陽性反応が出たこともある。2008年5月、ビッグブラウンでケンタッキーダービーを勝つ前日のチャーチルダウンズで、G3ターフスプリントSで2着となった管理馬サルートザカウントからも、クレンビュテロールの陽性反応が出ている。

 そのたびに、30日、もしくは、60日の資格停止を科せられるとともに、罰金の支払いを命じられているダトロー。2005年に60日に資格停止を食らった時には、調教師としての活動を行ってはならないにも関わらず、厩舎に足を運んでいたところを見つかり、更に2万5千ドルの罰金を科せられる。

 更に言えば、ダトロー自身、マリファナの使用が発覚したことが過去2度あるなど、ホースマンとして優れた実績を築いてきた一方で、社会常識やルールに関する観念が欠如しているとしか言えない行動を繰り返してきたのである。

 前出のARCIは、今回の事件を受け、ニューヨーク競馬協会に対して、ダトローに科すのは一定期間の資格停止ではなく、ライセンスそのものを剥奪すべきであるとの提唱を行った。これだけ再犯を繰り返している以上、更生の見込みはなく、競馬界全体の利益を考えても追放処分が妥当というのが、ARCIの見解だ。

 これに対してダトロー師側も、弁護士を立て、ダトローほど馬のことを第一に考えている調教師はおらず、薬の使用も馬の健康を慮ってのことと反論しているが、果たしてどうなるか。

 今後、幾度かの審理を重ねることになるが、今回の資格停止処分が実際に断行されるのか。そして、8月5日に更新日を迎えるダトロー師の調教師免許が、再発行されるのか。おおいに注目されるところである。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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