新大関・稀勢の里が誕生した。11月30日の伝達式では四字熟語を用いず、「謹んでお受けいたします。大関の名を汚さぬよう、精進します」と、きわめて簡潔に口上を述べた。「自分の思いをストレートに表現するにはシンプルなのがいいと思った」からだという。亡くなった先代親方の教えに従い、ガッツポーズでの記念撮影など派手なことはせず、しっかりとした口調で、淡々と意気込みを語った。
その実直な姿勢が好感を呼び、稀勢の里は一躍「時の人」として注目を集めた。
自分と同じ北海道出身の力士ばかり応援してきた私も、ずいぶん前から茨城出身の稀勢の里を応援していた。というのは、私が大学生だったころからお世話になっている小桧山悟調教師の末の息子さんと稀勢の里が小・中学校の同級生だからだ。小桧山師と、スマイルジャックやジャングルポケットなどのオーナーとして知られる齊藤四方司氏が稀勢の里の私設応援団(といってもメンバーは3人だけで、あとひとりは稀勢の里本人だという)を結成していることもスポーツ紙などで報じられているので、このつながりをご存知の方もいるだろう。
小桧山師は「自分の子供を可愛がるのに理由はいらないのと一緒」と稀勢の里を可愛がっており、ともに食事をした翌日の取り組みで稀勢の里は負けたことがないという。2008年のプリンシパルSを小桧山厩舎のベンチャーナインが勝った日もふたりは夕食をともにし、翌日、稀勢の里は当時の大横綱・朝青龍に土をつけた。
私が小桧山師のお宅によく遊びに行くようになった1980年代の終わりごろ、師は調教助手で、一番上の息子さんが中学生、5人きょうだいの末っ子のソウヘイ君は2、3歳だった(ごめんソウちゃん。「ソウヘイ」がどんな字だったか忘れた。というか、一度も聞いたことがなかったかも)。
ソウヘイ君に関して、今でもよく覚えているのは、彼が小学校に上がるかどうかのころのこと。小桧山邸で一緒に遊んでいた私が、夜、帰ろうとすると、ソウヘイ君が寂しがって引き止めるのだ。
「ごめんな、おじさんは仕事があるから帰らなきゃならないんだ」
「……」
「じゃあ、ソウちゃん、おじさんの子供になって、一緒に帰るか?」
と私が目を覗き込むと、黙って考え込む。
少し経って、帰り支度をした私を玄関まで送りにきたソウヘイ君が意を決したように私の前に立った。
「うん、いいよ」
目を伏せて、小声だったので、何を言っているのかすぐにはわからなかったのだが、私と一緒に帰ってもいい、という意味だった。
もちろん連れて帰りはしなかったが、ソウちゃんの可愛らしさに涙が出そうになった。
しかし、翌週か翌々週だったか、子供って残酷だな、とつくづく思った。
私と再会したソウヘイ君はさぞ喜ぶだろうと思っていたら、顔を見るなり、
「おじさん、誰?」
である。まあ、「忘れる力」もまた「生きる力」のうち、ということなのか。
ともあれ、あのソウヘイ君の同級生が今をときめく新大関なのだから、不思議というか、なんというか、面白い。
なお、ソウヘイ君は今、美浦・高木登厩舎で調教助手をしている。私はそれを、クラブ法人の会報の仕事で高木師にインタビューしたときに知って、ものすごく驚いた。
さて、今年25歳になった稀勢の里は、2004年、17歳9カ月で新十両になり、18歳3カ月で新入幕を果たした。いずれも貴乃花に次ぐ史上2位の若さだった。早くから「大器」「日本人ホープの一番手」と期待されたが、結局、大関昇進まで幕内42場所を要した。これは史上5番目のスロー記録である。
早熟でありながら、出世するまで時間がかかった。そのあたり、朝日杯FSを勝ちながらクラシックでは結果が出ず「早熟なのか」と思わせながら、6歳になって宝塚記念と有馬記念を勝ったドリームジャーニーとイメージが重なる。間違いないのは、長く力を出しつづけたという意味で両者はともに「本物」であり、力を発揮する環境を整えてくれた周囲に恵まれた「果報者」である、ということだ。
強烈な突き押しが武器で、組んでも強い稀勢の里は、当然のように横綱になることを期待されている。
今、現役の競走馬でイメージが重なるのは……、個人的にはやはり、小桧山師が管理するスマイルジャックにそういう存在になってもらいたい。実際、マイル戦線では「大関」ぐらいの実績だと思う(実力は横綱だと信じている)。
稀勢の里の綱獲りと、スマイルジャックのGI獲り、どちらが先になるだろうか。順番はともかく、どちらも現実のものになってほしい。