今回の福島県相馬市および南相馬市を訪ねての「被災馬ドキュメント」は、3週前のPart1のリードにあったように、来月からスタートする私の競馬小説のプロローグ的な意味合いを兼ねたものである。
あまりご存知の方はいないかもしれないが、私は小説も書いている。もちろん、これからも書きつづけるつもりで、それもできればネタが枯渇するまでは「競馬小説」を書きつづけたいと思っている。
小説には「ノンフィクション・ノベル」と呼ばれる分野があり、トルーマン・カポーティの『冷血』がその走りである。
また、「ドキュメンタリー小説」という言い方もあり、そう銘打ったもので個人的に最も強く印象に残っているのは、「小説サンデー毎日」1973年2月号所収の三好徹氏による短編「鞍上の人」という作品だ(同誌には「ドキュメンタリー大勝負小説」と記されている)。
これは、日本にモンキー乗りを普及させた故・保田隆芳氏の騎手引退レースとなった1970年2月22日の京王杯スプリングハンデキャップのレースシーンに、保田氏の半生のさまざまなエピソードを挿入しながら進めていく物語である。保田氏のプロフィールなどは事実にそくしており、氏のミノルが勝った京王杯のレース結果も事実そのままなのだが、2着のメイジアスターに騎乗していた故・野平祐二氏との馬上でのやりとりなどのディテールは、三好氏が両者に取材したうえでアレンジしたか、あるいは三好氏の創作だと思われる。このように、登場人物や事実関係は史実のままでありながら、細かいやりとりなど確かめようのない部分は作者の創作となるものを「ノンフィクション・ノベル」とか「ドキュメンタリー小説」とするなら、故・司馬遼太郎氏の『竜馬が行く』や、故・吉川英治氏の『三国志』、いわゆる「吉川三国志」などもその範疇に入る、ということになる。
私は、モンキー乗りというのはもともとあったものではなく、あるひとりの騎手がアメリカから「輸入」したものであることを知った20年ほど前から保田隆芳氏に話を聞きたいと思うようになり、雑誌の企画という形で何度かインタビューすることができた。
――今、私たちが見ている競馬は、この人がお手馬のハクチカラとともにアメリカに行きたいと主張しなければ、違ったものになっていたかもしれないのか……。
そう考えた私にとって、保田氏は自然と「憧れの人」になった。
その保田氏が、2009年7月1日に亡くなった。私は「週刊競馬ブック」に3週にわたって追悼ドキュメントを書き、「優駿」2010年4月号から11月号まで、「ノンフィクション・ノベル 馬上の変革者――名騎手・保田隆芳物語」を連載した。
――こういう素晴らしい人がいたことを、いろいろな形で物語として残さなければならない。
そう考えたと同時に、尊敬する人のことを書くのは幸福感のある作業なので、筆不精な私も、保田氏に関する文章だけは喜んで書きつづけた。「優駿」06年7月号に掲載された短編小説「青い鞭」の主人公・牧田隆史も、09年に第26回さきがけ文学賞選奨を受賞した競馬小説「下総御料牧場の春」に出てくる同名の若者も、モデルは保田氏である。
並行して、保田氏の弟弟子である「最年少ダービージョッキー」故・前田長吉氏の取材もするようになり、
――いつかまたノンフィクション・ノベルという形で長吉さんのことを書いてみたいな。
と思うようになった。
そんなときに東日本大震災が発生した。
以前本稿にも記したように、私は自分が20数年仕事をつづけてきて、微力ながらも一定の発信力を持つに至った今、それをフルに使って自分の「役割」を果たすべきだ、と考えるようになった。そのひとつが、今回の被災馬ドキュメントなのだが、もうひとつ、去年の夏の終わりごろから形にしたいと思うようになったのが、来月スタートする競馬小説である。
きっかけは、津波で亡くなった相馬野馬追の若武者、蒔田匠馬君の存在を知ったことであった。詳しくは、本稿のバックナンバー「
相馬野馬追と競馬(その4)伝統の力」をご覧いただきたい。
父の蒔田保夫さんが私に連絡をくれて、匠馬君の短い生涯をなんらかの形で残したいと言われてからときどき会うようになり、父子について本稿や「週刊競馬ブック」「うまレター」の連載などに書いてきた。
いつしか私は、匠馬君に、自分の小説に登場してもらいたいと思うようになっていた。
そして、当サイト「netkeiba.com」の編集者に企画を出し、実現するに至った。
主人公の名は、匠馬君と読みが同じ「将馬」にしようと思っている。最初は「翔馬」にしようと思ったのだが、同名の馬が警視庁騎馬隊にいるようなので、かぶらないよう「将馬」にしたい。
先日、南相馬での被災馬取材を終えたあとも蒔田保夫さんに会って、編集者と3人、ファミレスでお茶を飲みながら話をした。ICレコーダーを回さず、デジカメで写真も撮らない世間話である。
大切な存在を亡くした悲しみを抱えながらも、会うたびに彼の表情と言葉に覇気がみなぎってくるのがわかり、嬉しかった。
匠馬君のステッカー
「これ、どうぞ」と、蒔田さんが5cm×15cmほどのステッカーをくれた。「負けるもんか!! 南相馬市 おだか区」という文字の下に、匠馬君が相馬野馬追の野馬懸でマイネルアムゼンを追い込んでいる写真がある。これと同じ図柄の2m×6mの大きなシートが、南相馬市小高区入口の国道6号線沿いにかけられている。蒔田さんが勤める会社の会長がこのアイディアに賛同し、今後もさまざまな写真を使って同様のシートをつくっていくという。
また、蒔田さんは、三男の武士(たけし)君が通う南相馬市原町区の小高工業高校仮設校舎で勉強や部活動に励む生徒たちの環境改善について自治体に働きかけるなど、いろいろ動いていきたいと話している。武士君はサッカー部に所属しており、先日やっと各地のサテライト校に分散していた仲間が一か所に集まったのに、仮設校舎が彼らの練習場になり得た市のサッカー場に建てられたため、満足に練習できる場所を確保できずにいるという。
先刻、今も匠馬君の写真を使ったシートがかけられているか確認するため蒔田さんに電話をかけた。蒔田さんは、今年の野馬追には騎馬武者としては参加せず、どのように関わるべきか、模索中のようだった。
次に蒔田さんに会うのは、7月28日から行われる相馬野馬追取材のときだろうか。そのときには、小説も起承転結の「承」ぐらいまで進んでいるはずだ。
小説の最初の舞台は南相馬市の実在しない牧場で、タイトルは「絆」である。