▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円で購入された。キズナは2歳の春、美浦トレセンに近い育成場に入った。キズナの主戦騎手は「壊し屋」と呼ばれる上川博貴に決まった。上川は大迫から勝ち方の注文を受けた。
『通告』
竜ケ崎のマンションに向かってジャガーのステアリングを握りながら、上川博貴は大迫の言葉を反芻(はんすう)していた。
――2着馬を突き放さず、首差か頭差で勝ってくれ。ハナ差でもいいが、とりこぼしが怖いからな。
きっちり差し切る形でも、併せて凌ぐ形でも、どちらでもいいという。
理由を訊いても「そのうちわかる」と、例によってはぐらかす。
大迫が好きだったというキズナの父シルバーチャームは、現役時代、僅差で競り勝つ競馬で強さを見せた馬だ。
父と同じようなレースをさせたからといって、何の意味があるのか。
答えのわからないモヤモヤは残るが、その一方で面白そうだとも思う。
着差を想定して勝つーー。ほかの出走馬と力差があれば、不可能ではない。しかし、力差がありすぎると無理ではないか。オープン馬で500万下のレースに出て首や頭ぐらいしか差をつけずに勝つなんて……いや、道中遊ばせるか、馬群のなかであえて行き場をなくすなどすれば、どうにかなるかもしれない。
――4月に復帰したら、ほかのレースで試してみるか。
復帰の楽しみが増えたように思い、自宅マンションで木馬に乗るというルーティンにも、いつも以上に力が入った。
*
東日本大震災が起きてから2年以上経つというのに、特に福島第一原子力発電所事故の影響が残る地域の復興は遅々として進まない。
杉下将馬は、国や自治体が実施する放射能除染の順番が回ってくるのを待つのではなく、自分の手で杉下ファームの除染をすることにした。幸い、後藤田がキズナを買ってくれたおかげで、これまで見たことのなかった大金が手元にある。重機免許をとり、300万円で程度のいい中古のブルドーザを買い、表土の入れ替えを始めた。
それだけでも放射線量がずいぶん下がったが、ときどき、将馬が目標値に設定した毎時0.1マイクロシーベルトを上回る。これは牧場敷地内と周辺の木々に付着した放射性物質によるものだろう。敷地内の樹木は自分の判断で枝を落とすなどできるが、他人の所有地や市有地などの木々は勝手に伐採するわけにはいかない。考え抜いたすえ、下草を刈りながら高圧洗浄機で届く範囲で林の木々を洗うという、気の遠くなるような作業を始めることにした。
「おい、杉下、杉下……」
洗浄機の音で気づかなかったが、すぐ後ろに消防団の友人がいた。同じ中学に通っていた高橋という男だ。震災の日と翌日、将馬に声をかけてくれたのも彼だった。
「久しぶりだな、高橋」
「ああ、ときどきニュースでお前とキズナを見ていたから、こっちは久しぶりという感じはしないけどな」
中学のときは柔道部の主将で、高校に入ってから国体に出たほどの選手だったのだが、前に会ったときよりずいぶんやつれていた。
「親父さんは……?」
将馬が訊くと、高橋は首を横に振った。
「まだ見つからない」
「そうか」
「杉下、悪いが、重機を貸してくれないか。下の畑を整地したいんだ。除染を兼ねて、処分しようと思ってな」
「構わないけど、売ってしまうのか」
「親父が帰ってくるまでそのままにしておこうと思っていたが、さすがに諦めた」
高橋の畑は、今除染している雑木林から傾斜地を少し下ったところに、杉下ファームと敷地を接してひろがっている。
「なあ高橋、お前の畑、いくらならおれに売ってくれる?」
将馬が言うと、高橋は足元につばを吐いた。
「おれを見くびんな。助けてほしくて言ったわけじゃねえ」
「勘違いしないでくれ。実は、前から狙っていたんだ。この雑木林を切り拓いて傾斜のある馬道にして、あの畑に調教コースをつくれたらいいな、って」
少なく見積もっても、1周1200mほどの周回コースができるだけの広さはある。
「そうか……。とりあえず、重機、借りてくぞ」
「おう、考えといてくれ」
*
2013年5月末、美浦トレーニングセンター。
いよいよ来週、キズナが大迫厩舎に入厩する。予定している2回福島の新馬戦までひと月と少し。徐々に調整のピッチを上げ、5、6本時計を出してからデビュー戦を迎えることになるのだろう。
今以上にキズナのそばにいられる時間が長くなるのかと思うと、内海真子は落ちつかなかった。
澄んだ目と小さく整った顔もいいが、何より真子を惹きつけたのは、キズナの薄い皮膚の肌ざわりだった。
一度、キズナのトモにとまった虫をつぶそうと手のひらで叩いたことがあった。大迫に敷料の整え方で注意されてイライラしていたこともあり、思いのほか強く叩いてしまった。
――あ、どうしよう。
と思った瞬間、真子の手は、造形中の粘土を押し込んだかのように、キズナのやわらかな皮膚に受けとめられた。気のせいかもしれないが、ピシャッという音はしなかった。
あのとき、自分の手がトモの皮膚に沈み込んだときの感触を思い出すと、今でもドキドキする。
もう一頭の担当馬の水を替えてやろうと、水桶に手をかけたとき、後ろからポンと肩を叩かれた。
仕事中にときどき尻をさわったりするベテラン厩務員の福岡だと思い、
「何すんだよ、このジジイ!」
と振り向きざまに右手で強く払いのけたら、騎手の上川が立っていた。
「まあ、ミキティちゃんから見たらジジイだけどよ」
上川は真子の右手を受けとめ、その手のひらを自分のほうに向けて言った。
「はなしてよ、セクハラオヤジ」
「ジジイからオヤジに格上げか」
言いながら上川はジャケットの内ポケットからサインペンをとり出し、真子の右の手のひらに「一」と書いた。
「何するんですか」
「一回キレるたびに、こうやって正しいという字を書いていけ。で、あとでそれを見て、一本一本、どうしてキレたのか思い出してみるんだ」
「……」
「お前のことだから、なぜ怒ったのか思い出せない一の字がいくつも出てくるはずだ。そのうちキレるのがアホらしくなる。経験者が言うんだから間違いない」
つかまれた右手を引き抜こうともがいたが、軽く握っているように見える上川の左手はビクともしない。
これまで感じたことのない種類の恐怖が全身にひろがり、大声を上げそうになったときにパッと手をはなされた。
「こんなときに何の用ですか」
と睨みつけると、上川が少し声を落として言った。
「大迫のテキが言っていたことをどう思うか確かめにきた」
「先生が言っていたことって?」
「お前がもうキズナには乗らなくなる、ということだ」
「えっ!?」(次回へつづく)
▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。
福岡……大迫厩舎のベテラン厩務員。
高橋……消防団に所属する将馬の同級生。
※この作品には実在する競馬場名、種牡馬名などが登場しますが、フィクションです。予めご了承ください。
※netkeiba.com版バナーイラスト:霧島ちさ