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第19話 ファーストコンタクト

  • 2012年10月08日(月) 18時00分
▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年3月11日の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。キズナは、美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた馬主の後藤田によって1億円で購入された。2歳初夏のデビュー戦を控えたキズナの主戦は「壊し屋」と呼ばれるかつての一流騎手・上川博貴に決まった。上川は大迫から勝ち方の注文を受けた。

『ファーストコンタクト』

「わたしがキズナに乗らなくなるって、どういうことですか!?」

 と内海真子は上川博貴を睨みつけた。

「言葉どおりだ。お前はあの馬に関しては、持ち乗りではなく厩務員業務に徹する、ということだろう」

「でも、そうやって、上でいじめる人間と下で可愛がる人間を分けるのは、牝馬のときだけのはずです。どうして……」

 真子は目を真っ赤にして走り去った。

 彼女の後ろ姿を見送りながら、上川は舌打ちした。

 ――大迫のテキ、わざわざおれに言わせやがったな。

 策士の大迫のことだ。何か考えがあってこうさせたのだろう。


 上川が実戦に復帰してから2カ月近くになろうとしていた。

 一日に4、5鞍、土日で10鞍ほどのペースで乗り7勝した。まだGIには乗っていないが、競馬週刊誌のリーディングページの左ページの下3分の1ほどのところまで押し上げてきた。

 キズナの勝ち方として注文を受けたとおり僅差で決着するレースを他馬で試しながらの7勝で、うち6勝が半馬身差以内だった。ひとつだけ2馬身ほど後ろを離してしまったのは、怖がりで大逃げを打ったほうがいい馬に乗ったときだった。直線入口で後続を待ち、これ以上待ったら裁決委員に何か言われるというギリギリのところまで引きつけたのだが、僅差でゴールすることはできなかった。

 失敗したのはその1度だけで、6度も「テスト」に成功したわけだが、それでもまだ大迫の意図はつかみかねていた。

 ところが次の週末――。

 前走、突き抜ける手応えがありながらあえて頭差で勝たせた馬の格上げ初戦に乗ることになった。馬ごみのなかに入れて我慢させ、直線、ラスト200メートル地点で外に出すと、弾むように伸びた。今度も頭差ぐらいで勝とうとしたのだが、差し切った次の完歩も勢いが止まらず、半馬身差での勝利になってしまった。

 それは大迫の管理馬だった。検量室前に戻っても、騎乗馬はこれからレースをするかのようにカッカした状態になっていた。

「だいぶ溜まってきたな。こうならないやつもいるだろう?」

 という大迫の言葉でピンと来た。

 普通「溜まる」とは、末脚を爆発させるため、レース序盤にゆっくり走ってエネルギーを温存させることを言う。それと似たようなもので、10の力を出せる状態で直線に向きながら8の力でゴールすると、使わなかった2の力が体内に溜まっていくような感覚が、確かにあった。同じ僅差でも、ちょっとだけ差し届かなかったときや、逆にあと少しのところで差されたレースのあととは明らかに馬の様子が違う。

 ただ、こうした「意図的な僅差勝ち」は、エネルギーだけではなくストレスも同時に溜めていくことになるので、リスクもある。

 この馬も、これくらいにしておかないと、溜まった力を次に爆発させる前にストレスに押しつぶされてしまうかもしれない。

 ――同じことを2歳馬にやれというのか。

 これまでに味わったことのない緊張感がじわじわとひろがっていくのがわかった。

     *

 キズナが入厩してきた。

 真子が馬房の前に立ったときの様子から、キズナが真子を「主人」とか「飼い主」とみなしているわけではないようだが、「最も身近な存在」と認識していることは間違いないようだ。ジョイフルファームで乗っていたときからそれほど時間は経っていないのに、乗らずに世話をするようになると、キズナの表情が急に豊かになった。

 上に乗る人間と下で世話をする人間を分けて考えているのは大迫だけでなく、実は、キズナもそう考えていたらしい。

 ――だから先生は、わたしにこの仔には乗らないよう指示したんだ。

 馬は乗ってこそわかるものと思い込んでいたが、こうして目線を低くしてこそ見えてくることも多かった。長めに曳き運動をしていると、ときどき右トモの送りが明らかにおかしくなる。乗っていたときは隠そうとしていたのに、一緒に下を歩いていると、すべてさらけ出してくれるのだ。

 馬場入りを始めてから、3人の攻め専の調教助手が騎乗した。みな口を揃えて「やわらかい」「乗り味はいい」と言う。が、能力的なことや、背中から伝わってくる将来性に関しては誰も何も言わない。

 ――走らないと思っているのかな。

 速いところをやるようになれば変わってくるだろうと思っていたが、時計を出すようになってからも同じだった。追い切りのタイムも平凡だった。競馬週刊誌や日刊紙の「注目新馬」の欄にとり上げられることはあっても、血統、馬体、動きのすべてにおいて、評価は今ひとつだった。

 そうなると妙なもので、他人の目を気にしない性格だと思っていた自分も、少し自信がなくなってくる。新馬とは思えないほどあつかいやすいキズナが、落ちついているのか覇気がないのかわからなくなり、本来なら歓迎すべき素直さにイライラし、大きな音をたててカイバ桶をとりつけたりと、ついキツく当たってしまう。

 ――ごめん、キズナ……。

 申し訳なく思って謝りたくなるのは、いつも自分の部屋でひとりになってからだ。

 ベッドの向かいのソファ側の壁には、数年前の有馬記念の口取り写真のポスターが貼ってある。1年ぶりの実戦となったスターホースを鮮やかな勝利に導き、鞍上で右手を挙げて目を潤ませているのは上川博貴だ。

 ――上川さんはどう思うかな。

 しかし、大迫の指示で、上川は調教には騎乗せず、レース当日、初めてキズナに跨ることになっている。

 いつの間にか雨音がしなくなっている。

 明日、キズナの新馬戦に向けての最終追い切りが行われる。小さな馬なので、追い切りもレースも、少しでも馬場状態がよくなってほしいと思っていた。

     *

 2013年7月7日、福島競馬場。伝統のハンデ戦、七夕賞がメインレースとなるこの日、第5レースに芝1800メートルの2歳新馬戦が組まれている。

 フルゲート16頭の出走馬がパドックに姿を現した。

 緊張した面持ちで、真子がキズナを曳いている。

 ――ミキティ、お前が硬くなると馬に伝わっちまうぞ。

 控室前に立った上川が、馬にするように舌鼓(ぜっこ)で合図しても真子は気づかない。前後を歩く馬は耳を動かしたが、7番のキズナも真子同様、まったく反応しなかった。

 右トモを外に回すような歩き方は気になるが、体は仕上がっている。馬体重は440キロ。顔も小さいのでバランスはよく、数字ほど小ぶりには見えない。

 単勝は今のところ2.6倍。1番人気だ。

 キズナの横断幕が5枚もあり、うちひとつの後ろには生産者の杉下将馬がいる。その隣には、モデルのようにスラリとした若い女が立っている。

 ――何だよ、あの小僧。やることはしっかりやってんのか。

 上川の視線に先に気づいたのは女のほうで、彼女に肘で小突かれた将馬が慌てて頭を下げた。

「止まあれーっ!」

 騎乗命令がかかった。

 左脚を大迫に持ち上げてもらい、初めてキズナに跨った。

「どうだ?」

 キズナが歩きだしたとき、大迫が意味深な目を向けた。真子が聞き耳を立てているのがわかった。

 観衆のざわめきが遠のき、キズナがパドックを踏みしめる感触が鐙を踏む足の裏と尻に伝わってきて、そのリズムが自分の鼓動と重なった。

 ――何なんだ、この馬は……。(次回へつづく)

▼登場する人馬
上川博貴……かつてのトップジョッキー。素行不良で知られる。
杉下将馬…杉下ファーム代表。2010年に牧場を継いだ20代前半。
内海真子……大迫厩舎調教助手。安藤美姫に似ている。
キズナ……震災翌日に生まれた芦毛の2歳牡馬。父シルバーチャーム。
大迫正和……美浦トレセンのカリスマ調教師。
後藤田幸介……大阪を拠点とする大馬主。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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