スマートフォン版へ

騎手たちの非常事態

  • 2013年07月13日(土) 12時00分
  • 51
 今、私の手元に古い写真の拡大コピーがある。昭和4(1929)年の5月1日に撮影されたもので、前列中央に初代ダービージョッキーの函館孫作、その向かって左隣に最年少ダービージョッキー・前田長吉の最初の師匠である北郷五郎、その左にダービー8勝トレーナーの尾形藤吉……と歴代の名騎手、名調教師が並び、下部に「日本騎士倶楽部創立二十週年記念撮影」と記されている(「週年」はママ)。

 函館孫作の右には、箕田定吉、久保熊彦、肥田金一郎、園田清彦といった大物馬主が立っている。

 そこに居並ぶ総勢60名ほどのなかには、初代三冠馬セントライトを管理した田中和一郎、現役の大久保龍志調教師の祖父、大久保亀治、奇行が多かったので「ヘン徳」とあだ名された徳田伊三郎の姿もあり、みな、晴れやかな笑みを浮かべている。

 20周年ということは、この「日本騎士倶楽部」が結成されたのは1909年、元号で言うと明治42年ということになる。

 馬券発売が黙許され、日本に初めての競馬ブームが訪れたのは明治39年秋から41年秋にかけてだった。ところが、主催者による不正や客による騒擾事件が相次ぎ、馬券による借金で家を傾ける者が続出するなど社会問題となり、41年10月に馬券発売が禁止された。以降、競馬関係者は財政難のなかで苦闘をつづけるわけだが、そんなとき、「よし、力を合わせてこの難局を切り抜けよう」と「日本騎士倶楽部」がつくられたのだろう。

「日本競馬の父」と呼ばれた安田伊左衛門の尽力で競馬法が制定され、再度馬券が売られるようになったのは大正12(1923)年。15年もの長きに及んだ馬券禁止時代を乗り越え、それからさらに6年経ったとき、この写真が撮られたわけだ。

 馬券が売られなくなると、主催者のみならず、馬主、調教師、騎手、厩務員といったすべての関係者の収入が激減する。そうなると、コースやスタンドを改良するための設備投資ができなくなるし、海外から良血馬を購入することも、良質の飼料や最新式の馬具など、強い馬をつくるために必要なものを買うこともできなくなり、競馬のレベルがどんどん下がる悪循環に陥ってしまう。

 馬券禁止時代の15年間に比べるとマシなのかもしれないが、地方の競馬場が次々と閉鎖され、馬券の売り上げがなかなか下げ止まらない今だって、競馬史全体を俯瞰してみると、間違いなく「苦難のとき」である。

 数日前、本サイトなどで、「来年度の騎手免許試験で引退騎手の復帰条件が緩和される」というニュースが流れた。

 外国人騎手や地方競馬出身騎手が競争を激化させ、さらにエージェント(騎乗依頼仲介者)制度が浸透して一部の騎手に良質の騎乗依頼が偏るようになり、JRA所属騎手の淘汰が進んでいる。7月9日現在で126人となり、30年前(247人)の約半数、10年前(166人)と比較しても大幅に減っている。今年1月20日には、中山・京都の障害レースで「騎手不足」のため2頭が出走取消を余儀なくされるという珍事件も発生した。

 昨年引退した23人のうち8人が20代(当時)だったというのだから、これは異常事態であり、非常事態である。何歳になっても上達できる騎手という職業に就きながら、伸び盛りの20代に夢を捨てざるを得なかった無念を思うと、やり切れない気持ちになる。

 事情はまったく異なるが、史上初めて通算千勝を挙げ、八大競走全制覇を達成(ほかは武豊騎手のみ)した故・保田隆芳元騎手は、20歳のときから6年近く、戦争に駆り出されたため騎手を休業せざるを得なかった。20代前半を棒に振ったばかりか、戦地で体質が変わって体重も増え、復帰後は毎週3、4kg落としてレースに臨むようになったが、それでも前述したような偉業を達成し、さらに、ハクチカラとともにアメリカ遠征に出て、日本にモンキー乗りを普及させた。50歳になる直前まで第一線で活躍し、騎手界、そして競馬界全体の発展に大きく貢献した。

 昭和の日本競馬界を代表する名騎手が、ブランクは言い訳にならないことを実証している。

 批判的な声もあるだろうが、私は、一度難関をくぐり抜け、専門的な厳しい訓練を受けた元騎手の復帰の道をひろげること自体には賛成である。

 しかし、20代で夢を捨てなくてはならなくなったのには重い理由があったわけで、復帰しても状況が以前のままなら、もう一度見た夢を、また諦めざるを得ない若手騎手が続出するのは目に見えている。

 そのあたりにJRAがどんな対策を講じるのか、今後を見守りたい。

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆~走れ奇跡の子馬~』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング