◆1200mでレコード、2500mでもレコード 初コンビとなったのは、7戦目の京都芝1600m、4歳上400万下。9番人気という評価だったが、2番手追走からしぶとく粘り切り、400万下クラスからの卒業をはたした。
「まだまだあちこち痛いところを抱えながらのレースだったけど、とにかく上(騎手)に従順な馬でね。本当に乗りやすくて、こちらが組み立てた通りの競馬ができる馬だった。とはいえ、当時はGIを勝つなんて、想像もできなかったけどね」
同年の秋には、900万下を2連勝。その1勝目は阪神の芝1200mで、1分8秒9という当時のレコードをマークした。ちなみに、1200mを使ったのがこのときが初めて(それまでは1600mが最短で、2000mが中心だった)。
「それまで長いところを使っていたから、やっぱりついていけなくて。だから、無理してついていこうとは思わずに、終いを生かすレースをしたら、楽に差し切ってくれてね(2着に3馬身半差の圧勝)。ああ、この馬は終いを生かしたほうがいいんだなって気づいたのは、あのレースがきっかけだったかな。当時はまだ“重賞を勝てる”とまでは思えなかったけど、“どこかで重賞を勝たせてあげたいな”って、思い始めたのはこの頃だね」
それにしても、初の1200mでレコード、初の2500mでもレコード。似たようなタイプではビワハヤヒデが思い浮かぶが、いずれにしても競走馬として、とんでもないポテンシャルを秘めていたといっても過言ではない。
「距離の守備範囲が広かったのは、さっきも言ったけど上に従順だったことがすべてだね。もともと瞬発力がある馬で、我慢させようと思えば脚はタマるし、1200mの速い流れでも“行け”って指示を出せば反応してくれた。たぶんそれは、平田先生が担当だったおかげだと思う。本当に馬を可愛がる厩務員さんだったから。それは本当に大きいと思うよ。違う人が担当していたら、どう転んでいたかわからない」