◆今年の目標と、高橋英夫氏の話
私はめったにスーツを着ないので、一度買ったらエラく長持ちする。今、ドレスコードのある場に行くとき着ているのは数年前に玉川高島屋のバーゲンで買った濃紺のスーツなのだが、昨秋の凱旋門賞当日、ホテルで着たとき「あれ?」と思った。
ズボンの腹のところのボタンがしまらないのだ。
このズボンを穿くのは、確か前年のアジア競馬会議以来だからほぼ1年ぶりだ。
ズボンが縮んだわけではない。私の腹が出たのだ。
これは何かの間違いだとトイレで踏ん張ったが、何も出なかった。
――やべえ、おれもメタボ路線か。
私が物書きとして目指してきたのは、
「一見とっつきにくいが、話してみると案外いい人」
というキャラだ。
なのに、腹が出て体の線が丸くなり、終いに二重顎にでもなった日には、パッと見からして親しみやすい人になってしまう。それではイカン。
特に、このコラムのように写真が出ている場合、見た目が尖っていると文章までもシャープな印象になる、という利点がある。
「一文は短く」「アイキャッチを序盤に」といった、書くうえでの基本同様、この路線で行く限り、私は細身でなければならない。
脳裏に、武豊騎手が話しながら左手首を軽く振るシーンが蘇ってきた。愛用している腕時計の動き方で、今の自分の体重が200グラム単位でわかるのだという。
私の場合はあのズボンだ。
次に履くのは、1月27日のJRA賞授賞式の日になる。それまでに、上のボタンがしまるよう腹を引っ込めよう――これが私の、2014年の当座の目標である。
今年、創立60年を迎えるJRAより10歳若い私は50歳になる。
50歳。もし私がサラリーマンだったら、10年後には退職だ。
日本にモンキー乗りをひろめた故・保田隆芳氏が騎手を引退したのは50歳のときだった。その年、1970年の男の平均寿命は69歳ぐらいと、今より10年短かった。ということは、保田氏は今なら還暦まで現役をつづけられたかもしれない。しかも、20代前半の5年ほど中国に出征したブランクがありながら、だ。ああいう人の足跡を振り返ると、「50歳でもスーパーマンになれる」ということがわかって勇気づけられる。
その保田氏より1歳上の高橋英夫元騎手・調教師が、昨年8月に逝去していたことを「週刊ギャロップ」の記事で知った。94歳だった。葬儀などは家族だけで済ませ公表せずにいたが、1月3日が95回目の誕生日だったので、次男の高橋祥泰調教師が明らかにしたという。
高橋氏は、JRA史上初めて騎手としても調教師としても通算500勝以上を挙げた偉大なホースマンだった。
まさに競馬史の生き字引のような存在で、私が初めてお会いしたのは、最年少ダービージョッキー・前田長吉の遺骨が「帰郷」した06年、長吉に関する話を聞いたときだった。その後、氏が師事していた初代ダービージョッキー・函館孫作について、また、「競馬総合チャンネル」で外厩特集をしたときにも貴重な話を拝聴することができた。
「ギャロップで掲載している小説(虹の断片)でちょうどオヤジのことが書いてあるよね。もう少しあの時代(のこと)を聞いておけばよかった」という高橋祥泰調教師のコメントを読んで、
――天国の高橋先生にも読んでもらいたかったな。
と思った。
1935年に入門し、2年後にデビューした高橋氏は、
「ぼくは下手っぴだった」
と繰り返した。本当に下手っぴならリーディングになれるわけがないから、そう思っていたのは当人だけだろう。しかし、実際下手だったのに、鍛練であそこまで登り詰めたとしたら、それはそれですごい話だ。
「競馬総合チャンネル」の取材で、私と話している高橋氏の写真を撮った編集者が、
「何枚か、目線ありの写真なんです。さすがリーディングジョッキーですね」
と嬉しそうに話していた。そのとき氏は88歳だった。米寿にして騎手時代と同じ姿勢を保ちつづけた、カッコいい人だった。
――高橋先生。やすらかにお眠りください。
さて、これだけインターネットが普及し、SF映画に出てきたような顔につける端末が実用化されそうな世の中になっても、私は200枚ほどの年賀状を出している。来るのもだいたい同数で、その多くに、
「ネット競馬のコラムを読んでいます」
と書かれていた。
昨秋、凱旋門賞取材に行ったとき初めて話した藤岡佑介騎手にもそう言われた。
読んでくれるのは嬉しいのだが、彼らはこのコラムを面白いと思っているのだろうか。
それは訊かなきゃわからないし、仮に訊いたとして彼らが本当のことを言うとは限らない。だから、せめて自分だけでも、これは面白い、伝える意味がある、と思えるものを書いていきたい。
ということで、今年もどうぞよろしくお願いします。