デビューの頃から「ダービー制覇」を夢見続けてきた石橋騎手。その夢がついに現実として迫ったのは、デビューから実に22年目。40歳というベテランの域に入っていた時でした。最後のチャンスと覚悟を持って挑んだ大勝負。石橋騎手、人生最高の歓喜の瞬間を、今改めて振り返ります。(2/10公開Part2の続き、聞き手:東奈緒美)
◆勝利を確信した皐月賞東 :メイショウサムソンが3歳になって、クラシックの年に入った時のことをお聞きしていきたいのですが。
石橋 :2歳の暮れに中京2歳Sでレコード勝ちして、その時に「わりとスピードもあるんだな」っていう印象を受けたんだけど、3歳初戦のきさらぎ賞で2着に負けたんだよね。この時は僕がミスをして、外を回りすぎてしまって、ドリームパスポートに内をすくわれる形になったんだけど、その後のスプリングSを勝った時に「皐月賞を勝てる」と思ったね。
東 :「勝てる」って確信されたんですね。
石橋 :うん、確信した。その当時、マスコミにそういうことは言わなかったんだけど、結果が出たから今言うんじゃなくて、あの時はすごく自信があった。スプリングSの勝ち方が良かったからね。
外枠からスムーズに好位につけられて、中山の馬場にすごく合っている脚質だなと思って。それで「皐月賞でも勝ち負けになるな」と思ったの。それに、皐月賞って弥生賞組が人気になるでしょう。
東 :たしかに、弥生賞を勝った豊さんのアドマイヤムーンが1番人気で、メイショウサムソンは6番人気でした。
石橋 :弥生賞の方が強いメンバーが出ることが多いから、スプリングSを勝っても、そこまでの人気にはならないなと思って。そういう面でも気楽は気楽だったからね。
東 :その期待に見事応えてくれて、石橋さんは初めてのGI制覇と。その時の喜びは思い出されますか?
石橋 :そうね。何よりも、「やっとGIを勝てた」っていう気持ちが一番に出たかな。
東 :デビュー22年目で、しかもクラシックという。
石橋 :その時点では、まだダービーのことはあんまり考えていなかったんだけど、「やっと勝てた」っていうのがすごく印象に残ってる。松本オーナーも、クラシックを勝ったのは初めてだったんだよね。ずっと乗せていただいて、結果を出せたなっていう気持ちもあったよね。
東 :メイショウさんは馬をたくさん持たれていますが、クラシックは意外にも初めてだったんですね。
石橋 :そうそう。GI馬は宝塚記念を勝ったメイショウドトウと、フェブラリーSを勝ったメイショウボーラーがいたけどね。
◆1番人気のプレッシャーすら幸せだった東 :次のダービーは、気合が入りましたか?
石橋 :気合はこの年になると入らないけど(笑)、冷静に、やっぱりプレッシャーは感じたよね。自分の夢だったし、みんなが目指すところだし。ましてや、一冠を獲ってのダービー挑戦っていうのは、僕だけですからね。そんなこと、騎手人生の中でもそうないと思うし。まぁ、豊がひとり勝ちすぎだけど(笑)。
だけど、豊の言葉ですごく心に残っているのがあって。「一冠を獲ってダービーで1番人気っていうのは、騎手冥利に尽きますよ」っていうのは、なるほどなって思った。豊も経験していることだし、失礼だけど、一冠を獲らないでダービー挑戦より、一冠を獲ってダービー挑戦の方が責任感もありますしね。逆に「1番人気になってくれ」って思ってたくらいだから。
東 :プレッシャーではなかったんですか?
石橋 :ありましたよ、もちろん。それは、ないとは言わない。こんなチャンスは二度とないって思ったし、年齢的にも、毎年毎年そういう馬に巡り合えるわけでもないし。だからプレッシャーは、それはやっぱりあった。でも、そのプレッシャーも僕しかできないと思ったら幸せでね。騎手人生において、それを味わえない人も多いわけだから。
東 :味わいたくても味わえないプレッシャーですね。そのプレッシャーに打ち克って、ダービー勝利の夢を叶えた時は、どんなお気持ちだったんですか?
石橋 :ん〜、その時は、意外と冷静だったっていうか。ホッとしたのがあったのかな。それだけ注目されていたわけだし。ダービー後のインタビューで「騎手をやっていてよかった」ってコメントしたと思うんだけど、「この仕事に就いて良かった」っていうのは思ったね。
東 :燃え尽きて、自分の中で騎手の区切りになるような出来事という。
石橋 :うん。そういう気持ちもあって調教師を目指したわけだけど、今考えるとこれでよかったんじゃないかな。ダラダラやっていてもよくないと思うし。もしダービーを勝っていなかったら、調教師を目指してなかったかもしれないしね。まぁ、逆にもっとハングリーになって、今も乗っていたかもしれないけど。でも、誰でもそうだけど、自分の人生だしね。最終的には自分で決めないとって思ったし。それは本当に、よかったのかなって思うよね。
◆相棒・サムソンへ「お疲れさん」東 :そうですよね。メイショウサムソンについてはその後、凱旋門賞を見据えて豊さんに乗り替わりっていうのがありましたが。
石橋 :うん。瀬戸口先生が定年で、高橋成忠厩舎に転厩したんだよね。それで、大阪杯、天皇賞・春を勝って、宝塚記念までが俺だったの。宝塚記念の後にオーナーから直接言われて、そこには豊もいてっていうのは有名な話だけど。オーナーらしいなって思ったね。
東 :みんなの前で伝えて。
石橋 :乗り替わることについては、なんとも思わなかったしね。まぁ、豊はびっくりしてたけど(笑)。仕方ないよね。俺がオーナーだったら、やっぱり豊を乗せてると思うしさ。だから「今まで乗せてもらってありがとうございます」っていう気持ちだったね。豊は大変じゃないかなって思ったかな。
東 :凱旋門賞は残念ながら10着でしたが、帰ってきて初戦のジャパンCが、豊さんが怪我をされていて、石橋さんが久しぶりにサムソンに乗られたんですよね。
石橋 :そうそう。あの時は結構ね、コンビが戻るっていうので、すごく温かい声援をいただいてね。3番人気くらいになったんじゃないかな?
東 :そうでした。前年の宝塚記念以来、約1年半ぶりのコンビでしたね。
石橋 :久々に跨って「えらい大人になったなぁ」って感じだったな。3歳の時はローテーション的にも上り調子だったし、三冠を狙えるかっていう馬だったからね。その時に比べたら、落ち着いたっていう印象だったかな。
東 :このジャパンCの後の有馬記念で、サムソンは引退となりました。その時はさみしさはありましたか?
石橋 :いや、さみしいとは思わなかったかな。それが競走馬だからね。「お疲れさん」「ありがとう」っていう感じかなだったね、一言でいえばね。
東 :大きな怪我もなく、よくがんばってくれましたね。
石橋 :うん。GIを4つも勝って、重賞も2つ勝って。がんばって走ってくれたよね。だから本当、「お疲れさん」と「ありがとう」だったね。(Part4へ続く)
■次回予告
1年間の技術調教師の経験を経て、3月1日、いよいよ「石橋守厩舎」が船出を迎えます。すでに入厩が決まっているという、ゆかりのメイショウサムソン産駒への思い、厩舎開業までの知られざる苦労、そして調教師としての目標を語ります。
【石橋守】
1966年10月23日生まれ。厩務員である父のもと滋賀県で育ち、競馬学校第1期生として1985年に騎手デビュー。同期は柴田善臣、須貝尚介ら。初騎乗を初勝利で飾り、1992年にはミスタースペインで京阪杯・高松宮杯を制して重賞制覇。2006年、メイショウサムソンに騎乗し、皐月賞とダービーの二冠に輝く。2013年2月末で騎手を引退し、調教師に転身。JRA通算473勝、うち重賞15勝。