◆ターフを沸かせた個性派、余生は鹿児島で ナイスネイチャのように主役にはなれなくても、応援したくなる馬、人々の心に残る馬がいる。1月31日、一頭の名脇役が天国に旅立った。その馬の名はオースミロッチ(セン)、享年27歳。彼もまた、主役にはなれなくても、多くのファンの心に残っている馬の1頭ではないだろうか。
オースミロッチが走っていた1989年から1993年の間は、オグリキャップやメジロマックイーン、メジロライアンらが活躍していた、正に競馬ブーム全盛期であり、競馬場がまだファンで埋め尽くされていた時代。
ロッチは主役にはなれなかったけれど、8勝すべてが京都競馬場で挙げたものであり、勝った重賞も京都記念(GII)、京都大賞典(GII)と、頭に『京都』がつくことから「淀の申し子」とも呼ばれていた個性派だった。
1993年10月の天皇賞・秋を最後にターフを去ったオースミロッチは、九州の吉永ファームで種牡馬となった。5世代に渡って17頭の産駒を出したものの、その子供たちが中央競馬で勝ち星を挙げることができないまま、種牡馬を引退した。
その後、一人のオーナーとの出会いによって、何か所かの場所を移動しながら、ロッチは余生を過ごしてきた。
鹿児島県湧水町にあるホーストラストに来たのは、2008年の10月。
「ロッチは、人間に対してはドライでベタベタしない馬でした。馬に対しては、キツいところを見せることもありましたね」と話すのは、ホーストラスト開設時からのスタッフ・大野恭明さんだ。
「キツい面があっても凶暴というわけではなくて、寄ってくる馬がいるとそれは受け入れているようなところはありましたけどね」(大野さん)
ホーストラストでは、健康状態に問題なければ、集団で昼夜放牧をしている。
「群れから離れて1頭でいても、寂しがるということはなかったですし、1頭ツーンとしているように見えました。我が道を行くというタイプだと思います」と、大野さんはロッチの在りし日の様子を語った。
そして「重賞に勝って功労馬となるような馬は、気弱な馬はいませんね。気も強いですし、生命力も強いですよ」とも付け加えた。
だが、ロッチには弱点もあった。
「前肢も後肢も、ケガをしやすそうな蹄をしていましたね」と大野さんが言うように、ホーストラストにやって来た当初から蹄のトラブルが多い馬でもあったのだ。
それでも、放牧地ではマイペースにのんびりと草を食み、時には寄ってくる馬たちにさりげなく寄り添いながら、静かに時を過ごしてきた。
◆享年27歳、皆に看取られての旅立ち ロッチに異変が起きたのは、昨年の11月下旬。左後肢を挫石したのだ。
「挫石をする前に右後肢を痛めていましたので、それをかばって左後肢も悪くなったのかもしれません」(大野さん)
挫石の治療が続けられ、なかなか出なかった膿も1月初旬に排出された。しかし痛みが引かなかったためにレントゲン撮影をしたところ、蹄葉炎を発症してかなり重篤な状態だということが判明し、1月30日には「治る確率がほとんどない」と獣医師に告げられていた。
そしてその夜、ロッチは横たわってしまい、自力で立ち上がれなくなる。それまでは、痛みがあっても決して寝ることはなかったというから、よほど痛かったのか、体を支えきれなくなってしまったのかもしれない。人のサポートを借りながら、何度も立ち上がろうとしたロッチだが、それも叶わなかった。衰弱もしていた。痩せてもきていた。もちろん痛みもあっただろう。やがてロッチは、自ら立ち上がろうとはしなくなった。
安楽死の措置が取られたのは、1月31日のことだった。最後の瞬間には、ロッチに愛情を注ぎ続けたオーナーも立ち会っていたという。彼を愛する人々に見守られ、天に召されたオースミロッチ。現役時代の個性溢れる走りは、多くの人の心に残ったが、功労馬としての馬生においても、関わってきた人々の心の中に大きなものを残したようだ。
「トラブルの多い馬でしたから、もう少し長く良い状態で過ごさせてあげたかったですね。でも年齢を重ねた馬を管理していく上での良い勉強をさせてくれましたし、僕の先生のような馬でした。ロッチで学んだことを他の馬に生かしていきたい、そう思っています」
大野さんの言葉は、天国のロッチにきっと届いていることだろう。そしてホーストラストで余生を過ごす馬たちを、さりげなく見守っていてくれているに違いない。
(取材・文:佐々木祥恵、写真提供:ホーストラスト)