◆GI制覇の喜びもつかの間、翌週に招いた事態
キングヘイローで挑んだダービーは、スタート直後から持っていかれて14着に惨敗(関連コラム『キングヘイロー・エピファネイア・レッドリヴェール、祐一の“ダービー”』は
こちら)。秋初戦の神戸新聞杯は、岡部さんに乗り替わりになった(3着)。その後、自分の手に戻り、京都新聞杯(2着)、菊花賞(5着)、有馬記念と戦ったが、有馬記念の6着を最後に、完全に自分の手を離れた。
しかし、その秋には、記念すべきGI初制覇のパートナーとなるプリモディーネとの出会いがあった。初戦は幸先輩が騎乗して、京都のダート1400mを快勝。2戦目のファンタジーSから手綱を任されたのだ。初めての芝、それもいきなりの重賞ではあったが、追い切りでの感触から芝でもやれる手応えは十分に感じていたし、とにかくいい動きだったことを鮮明に覚えている。当日の評価は6番人気。でも、勝てる自信があった。
ちなみに、プリモディーネの調教師だった西橋さんは、家が近所だったこともあり、息子さんとは幼なじみ。調教師である豊治さん、その弟で、現在も調教助手をやっている昇さんも含め、自分が幼いころから西橋家と福永家は仲が良かった。そういうつながりもあって、当時はフィガロ(97年京都3歳S1着、同年朝日杯3歳S3着)やプリモディーネなど、伊達秀和オーナーの馬を中心にチャンスをもらっていた。
ファンタジーSは、期待通りの走りで快勝。年明けは、チューリップ賞4着から桜花賞に向かった。人気は、スティンガー(岡部幸雄)、フサイチエアデール(武豊)、ゴッドインチーフ(河内洋)に次ぐ4番人気。上位人気の1頭ではあったけれど、勝つシーンをイメージできていたわけではなかった。道中は、河内さんとユタカさんを見ながらの後方からの競馬で、動くに動けない位置にいた。でも、それが逆に功を奏して、いいタイミングで抜け出すことができ、あれよあれよで勝ってしまった。
▲デビュー4年目で手にしたGIタイトル(撮影:高橋正和)
正直、自分のGI初制覇は、偶然の産物だった。最初のGI勝ちはそんなものだとよく聞くが、本当のその通り。ガッツポーズはしたものの、自分でもビックリの勝利だった。当時は、数こそたくさん勝っていたけれど、自分が描いた通りに乗れて、なおかつ勝てたレースなんてごくわずか。だから、桜花賞を勝ったとき、こういうレースをあらかじめ自分でイメージして、実践して勝てるようにならないとダメなんだなと思ったものだ。今はあのときの桜花賞のような競馬を意識的にすることができる。勝ち負けは別として、自分がイメージした競馬がまったくできなかったというレースは、10回のうち1回くらいだ。それが経験であり、技術なんだと今はわかる。
自分という人間は、いい流れのときや大事なときに限ってポカをする。