「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。ここでは、そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく。第2弾の最終回は和田竜二騎手。テイエムオペラオーへの騎乗を最後まで守ってくれたことはもちろん、デビューから今日まで、父親のように見守り続ける岩元市三師への感謝の言葉を綴る。(取材・構成/不破由妃子)
◆同期も口をそろえる“真面目”な和田
和田竜二は、競馬関係者の息子として、栗東トレーニングセンター付近で生まれ育った、いわゆる“トレ子”である。父・守は、JRAの厩務員として40年余を務め上げ、昨年、65歳で定年を迎えた。「夏休みに親父の札幌出張について行ったなぁ」と、幼き頃の思い出を懐かしそうに語ってくれたが、いかにもトレセン育ちらしいエピソードである。ちなみに、父・隆が調教師であった高橋亮とは、同じ小中学校に通った幼なじみ。そんなふたりが競馬学校入学前に通っていた乗馬クラブには、ひとつ年上の福永祐一もいた。
最初は「こいつ、誰やねん」と思っていました。あいつ、前年の試験前に骨折した事もあって、不合格になったんですよね。ひとつ年上だということはもちろん知っていましたが、とくに意識することもなく、乗馬クラブではよく話をするようになりました。ただ、祐一が前年の試験に落ちたことで、自分たちの期の合格枠がひとつ減るんじゃないかという思いがあった。合格したから良かったですけど、もし自分が試験に落ちていたら、一生恨んでいたでしょうね(笑)。骨折してんじゃねーよって(笑)。 福永も、いうまでもなく競馬関係者の息子。トレセンのほど近くに自宅があるのは和田と同様だが、福永は小学校2年生のときに学区外の私立に転校。学年も違ったため、競馬学校入学前の1年間に乗馬クラブで顔を合わせるまで、和田とは面識がなかったのだ。
天才ジョッキー・福永洋一の息子に、JRA史上初となる女性ジョッキーと双子ジョッキーの誕生など、話題性がいくつも重なった12期生。競馬学校時代の和田については、「一番真面目だったのは和田」(福永)、「なんでも率先して一生懸命取り組む和田くんに、みんながついて行っていたような感じ」(細江純子)という証言がある。
▲今でも仲がいい“花の12期生”たち
12期生は、それぞれのキャラが立っていて面白かったですね。自分は小学生のころから授業中に騒いでいるようなキャラでしたが、一方で、勉強は真面目に取り組むタイプ。自分でいうのもなんですが、あまり親に迷惑を掛けない子供だったと思います。競馬学校に入ってからもそう。今でもそうですが、“真面目”しか武器がないんです(笑)。 結果的に、同じ期に祐一がいたことはラッキーでしたね。祐一をきっかけに12期生全体が注目されたわけですから、最後にはむしろありがたいとさえ思っていました。 競馬学校時代の3年間を振り返ると、楽しかった思い出と同時に、もったいないことをしたという思いがあります。3年もあったわけですから、直接的な技術向上につながることをもっともっとできたのではないかと。海外では20歳そこそこでダービーを勝つジョッキーがいる一方で、自分がデビューした頃なんて、話にならないくらい下手くそでしたから。日本でも年々競馬学校の授業内容は充実してきていますから、自分の頃と比べると、今の若手のほうがよっぽど巧い。できることならもう一度、競馬学校からやり直したいくらいです。 これまで多くのジョッキーを取材してきた筆者だが、その厳しさゆえ、「競馬学校にはもう二度と行きたくない」というジョッキーが大半を占めるなか、和田は昔から「もう一度競馬学校からやり直したい」と真剣に語る。本来の真面目な性格を物語る一方で、やはり未熟なままテイエムオペラオーという怪物と出会ってしまったことによる、自分自身への後悔や歯がゆさがあるのだろう。
苦労人・岩元市三からの教え
競馬学校を卒業した和田は、1996年、栗東・岩元市三厩舎よりデビュー。所属に至った経緯には、父・守の奔走があった。