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■第6回「転身」

  • 2015年03月23日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。厩舎改革を決意した伊次郎は、ベテラン厩務員のセンさん、元ヤンキーのゆり子、そして、ぐうたら厩務員の宇野と初めて膝を突き合わせて話をした。その翌日、近くの定食屋の厨房に、宇野と別れたばかりの美香がいた。



「いやあ、旦那も隅に置けませんなあ」

 定食屋の店主が、伊次郎に向けた丸い顔をほころばせた。厨房で美香が流した涙を見て何か勘違いしたらしい。

「おれが女を泣かせるように見えるか」
「……い、いや、めっそうもない」

 泣かせるように見えたから言ったはずなのに、慌てて首を横に振っている。

「いくらだ」
「え、そんな……」

 身請けの額でも訊かれたと思ったのか、絶句する店主に伊次郎は言った。

「おれが食ったしょうが焼き定食は、いくらなんだ」
「あ、ああ、それなら750円です」

 美香に声をかけるべきかどうか迷いながら、そのまま店を出た。

 競馬場からこんなに近いところで働いているということは、美香は、宇野とやり直したいと思っているのだろうか。

 だいぶ陽が傾き、西の空がオレンジに染まってきた。「カー、カー」とカラスの鳴き声が近づいてくる。そのうち1羽は、あの飛び方と声からして、いつも厩舎に遊びに来るヤツだ。カラスは実に頭がよく、伊次郎が話しかけてやるだけで楽しそうにする。おそらく、自分の理解している音声と組み合わせて意味を考えているのだろう。

 伊次郎は、子どものころから異様に動物になつかれる。カラスにつづいて、このあたりのボスとおぼしき、太ったキジトラのネコが喉を鳴らして歩いてきた。こいつも顔見知りだ。カラスが羽を休めるガードレールから2メートルも離れていないのに、前脚を突き出して伸びをし、顔を洗いはじめた。カラスも首を傾げ、伊次郎が何か言うのを待っている。ネコもカラスも自分の反射神経に自信があると同時に、相手の運動能力の高さをよくわかっているのだろう。これだけ至近距離にいても平然としており、互いに威嚇も攻撃もしない。緊張感がここまで高まると、信頼感や一体感に近いものになる、ということか。

「うちの厩舎スタッフと管理馬も、お前らみたいな関係になるといいのかな」

 ネコとカラスは同時に伊次郎に目を向け、去って行った。

 ――自分で考えろ、ってことか。

 なんの気なしに振り返ると、美香が立っていた。割烹着を着たままだ。

「先生……」
「どうした。店は大丈夫なのか」
「はい、30分ぐらいならいいから、行ってこいと言われました」

 30分とはずいぶん長いが、様子が気になっていたので、ちょうどよかった。

「じゃあ、少し話そうか」

 と伊次郎はコンビニ脇の路地に入り、「カフェバー・ほころび」の扉を押しあけた。見た目は陰気臭いが、料理も飲み物も抜群に美味い。いつ来ても空いているのもいい。

 だが、美香は入るのを躊躇している。店名と雰囲気から怖い店だと思ったのか。

「心配ない、おれの行きつけの店だ」
「はい」と、美香は、意を決したように割烹着を脱ぎ、入ってきた。

 案の定、先客はいなかった。テーブル席の向かいに美香が腰掛けるとき、ラベンダー系の香水とごま油のまじった匂いがした。ひどくゴチャゴチャした感じが、彼女の気持ちそのもののような気がした。

 美香は「ほころびブレンド」を頼み、伊次郎は、ウイスキーベースのカクテル「しがらみ」を注文した。

「ほころびブレンド」をひと口飲んだ美香は、驚いたような顔をしている。
「このコーヒー、美味しい……。こんな店があるなんて知りませんでした」
「知っていても入りづらいよな。店名がこれで、外から見たら暗いし、しかもこのテーブル、ほら、インベーダーゲームだぜ」

 聴こえているのかいないのか、30歳ぐらいとおぼしきバーテンは黙ってグラスを拭いている。伊次郎はバーテンを顎で指して、つづけた。

「あいつもおれと同じなんだ。親父さんがぽっくり逝って、ここを継ぐことになった。遺言が『店名は変えるな』だってよ。なあ?」

 バーテンは小さく笑って頷いた。

 少しの間つづいた沈黙を伊次郎が破った。

「宇野とやり直したいのか」
「……自分でもよくわからないんです」
「その顔はどうした」

 唇の端が切れている。美香は答えなかったが、聞かなくても宇野にやられたということはわかった。寄ってきた女と長つづきしないのは、DV癖があるからだ、という噂は本当だったのか。

「なぜ、あいつが女にばかり手を上げるかわかるか」
「……」
「あいつが弱いからだ」
「はい……」
「クズだからだ。クソ野郎だから……」
「そんな言い方はひどいと思います!」

 と美香が立ち上がった。

 伊次郎は、フーッと30秒ほど息を吐いてから言った。

「そこまであのバカのことを思っているんなら、もう少し粘ってみるか」
「え……?」
「まあ、まず座れ」
「はい」

「美香さん、あんたが宇野とやり直す方法、それも、二度と殴られずに、また一緒に暮らしていく方法が、おれが思うに、ひとつだけある」
「はい」と美香は唾を呑み込んだ。
「あんたも、うちの厩舎の従業員になるんだ」

「え? 従業員って……」
「厩務員として馬の世話をするのさ。毎日おれと顔を合わせるようになれば、あいつも下手なことはできなくなる」
「でもわたし、馬に乗ったことも、触ったこともありません」
「大丈夫だ。センさんだって馬に乗れないし、おれも今後馬に乗ることはない」
「……」
「どうする?」

 という伊次郎の問いかけに、しばらく考えていた美香が答えた。

「やります!」

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の(元)妻。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の調教を手伝っている騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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